ドストエフスキー体験があるかどうか?!?―文学全集、一家に一セットあると思っていたあの頃―Ⅷ
小学生の頃から家にあった3種類の「文学全集」。
その中で「少年少女文学全集」から始まって「日本文学全集」、「世界文学全集」まで読み、日本文学では、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治などは個人全集まで購入して読んだのである。
それでは、世界の文学に対してはどうだったか。
わが家にあったのは、中央公論社の「世界の文学」で、まさに世界の文学を網羅していた。
この文学全集では、ロシア文学、ドイツ文学、フランス文学、英米文学、といったものを明確に分類してくれていたわけではないが、読んでいるうちに自然と自分で区別をつけていたように思う。
それぞれの国には特徴があった。
中でも私が惹かれたのは、何故かドイツ文学とロシア文学であった。
逆に英米文学にはあまり興味を持てなかったことを覚えている。
ロシア文学の巨人は言うまでもなく、トルストイとドストエフスキーである。
「世界の文学」にも、この二人の作品は収録されていた。
二人の作品を読みながら、私が惹かれたのはなんといってもドストエフスキーであった。
「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」などが代表作であるが、いずれも大変な長編なので、読みこなすのにはとても骨が折れたのを覚えている。
ドストエフスキーに関しては、どうしても個人全集まで手に入れなければ、と思った。
ほかの作品もすべて読んでみたくなったのである。
そうやって、後ほど購入したのが河出書房新社の「ドストエフスキー全集」であった。
これを高校時代から浪人中にかけて読みこなしたのだから、今考えればすごい投下エネルギーだ。
おかげでというかその効用だったのだろう。
大学入試程度の国語の問題は、何ということなくこなせたのである。
ドストエフスキーには、イメージ的にどちらかといえば暗い作品が多い。
「罪と罰」などはその典型であろう。
「貧しき人々」「地下生活者の手記」「死の家の記録」などは、それがもっと極まっていると言っていいだろう。
まあ、ここまで読んでいる人はそういないとは思うが・・・
そんな中で、唯一ポジティブというか明るく見えるキャラクターがいる。
それは「白痴」のムイシュキン公爵である。
この底抜けの好人物をドストエフスキーは見事に描き切っている。
とはいえ、最終的に悲劇的であることに変わりはないが。
そんなドストエフスキーの内向的な世界観に魅せられ、深く入り込むように読んだものである。
幻冬舎代表の見城徹氏もその著書で
「僕はドストエフスキー体験があるかどうかが、人間を分けると考えている。」
と書いておられる。
全体的には雑然とした私の本棚。
つづく
今日の川柳コーナー
◆昔なら 「内向的」が 今オタク
◆チャラ男でも 「外向的」と 呼ぶ現代
内向的=内省的、思索的、と悪いイメージではなかったんだけどなあ・・・