読んだ文字面だけから想像する世界―文学全集、一家に一セットあると思っていたあの頃―Ⅶ
子供の頃からわが家にあった「少年少女文学全集」「世界文学全集」「日本文学全集」の3種類の「文学全集」を通じて、文学の世界にどっぷりとハマることになった私。
ここを入口としないで、その作品をよく読んだのは芥川賞作家の庄司薫氏であった。
芥川賞受賞作の「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、その後映画化もされて、ヒロイン役の森和代は今でも印象的に覚えている。
さて、庄司薫氏の登場で話がすっかり逸れてしまった。
「日本文学全集」から入って、個人全集まで購入した作家は、夏目漱石と芥川龍之介、それに太宰治ということはすでに述べた。
それでは「世界文学全集」の方はどうだったのだろうか。
こちらの方も、おそらく「日本文学全集」と並行して読んでいたのだと思う。
とにかくあの頃はあれこれと読みあさっていたのだろう。
今考えてみれば、日本文学と世界の文学との出会いと印象は随分違ったもののように思える。
私にとって、邦画と洋画は、同じ映画といっても、かなりとらえ方は異なるものである。
文学もそれとちょっと似たようなイメージかも知れない。
ものにもよるが、日本の映画は日常の延長線上でとらえることができる。
これに対して、洋画は完全なフィクションでありファンタジーの世界である。
そのロケーションも人々の考え方も日常の延長線上にはない。
世界の文学にハマったときは、様々なシーンがほぼすべて想像の世界で構築されていた。
ドストエフスキーの描くロシアの庶民というより、さらに下層の世界で暮らす人々の日常は、薄暗く寒々とした風景の中にあった。
エミリー・ブロンテが「嵐が丘」の中で描くイギリスの風景は荒涼とした丘陵地帯である。
そんな世界は実際には見たこともない。
最初に読んだときは、映画やテレビなどの映像で観たという原体験的元データが頭の中にあるわけでもない。
純粋に読んだ文字面からしか想像するしかないのだ。
しかし、あの頃は、ロシア文学、ドイツ文学、フランス文学、英文学、それぞれに描かれている世界を想像して、その映像を頭の中で結んでいたことになる。
そんな世界に遊んでいたんだ、と思うと、今考えれば随分豊かな時間を持っていたものである。
中央公論社の「世界の文学」。箱はあまりに汚れていたので、捨ててしまって全部むき出しです。
つづく
今日の川柳コーナー
◆背伸びして 読んだ文学 身についた?
たぶん、そんなに身についていないな・・・・