スローモーションのようによみがえる―九死に一生を得た話、もしあのとき・・・・・―Ⅴ(おしまい)

仲良しだった近所の大学生のお兄さんの自転車で二人乗りをしているとき、町はずれの海っぱたにある堤防から転げ落ちる事故にあって大怪我をした私。

町の病院で応急処置をしたあと、大きな県立病院に1ヶ月以上も入院することになってしまった。

 

60年以上昔にもかかわらず、その入院生活の中でポツポツと覚えている記憶があった。

それは、消灯時間のあとこっそり聞いたラジオ番組や、ギプスを切断する際に泣きわめいていた男の子のことなどである。

 

石膏ギプスを電動丸鋸で切断する光景は、泣きわめいている男の子の姿と相まって、まさに阿鼻叫喚の図であった。

そのとき私は

「骨折とかしたら、こんななっちゃうんだ。ぼくは絶対に骨を折ったりしないようにしよう。」

と心の中で思った。

 

今回、幼い頃、大きな怪我をしたときのことを思い出しながら書いてみて、

「よくこんなに細かいところまで覚えているもんだなあ・・」

と、自分でも驚いている。

特に、堤防から落ちる瞬間のことは、まさに映像としてスローモーションのようによみがえるのだ。

 

あのとき死なずに済んだ。

九死に一生を得た、とはまさにこのことだろう。

 

もちろん当時のことを、何もかも詳細に覚えているわけではない。

むしろほとんどのことは忘れてしまっているだろう。

 

しかし、今回このことを書いてみて、自分が生きてきた中で強く印象付けられた事象は、その前後のことも含めて、記憶の奥に鮮明に転写されているんだなあということがわかった。

 

ということは、その「印象付けられた何か」を発掘すればするほど、それにまつわるディテールを含めて、なにかしら新しい面白い発見があるかも知れないな、とも思う。

しかも、それは時系列的に現在から離れれば離れたものほど興味深い発見につながるような気がする。

確か、詩人のリルケも、その著作の中で同じようなことを書いていたような気がする。

 

そう考えると「青春の甘くほろ苦い思ひ出」なんていうのは、ついこの間の出来事に過ぎないのかも知れない。

子供の頃、それもまだ幼かった頃の記憶の中に、きっと珠玉のようなエピソードが隠れているんだろうな、と、今回書きながらそんなことを思った。

 

 

おしまい

 

今日の川柳コーナー

◆カミさんの サンダルつっかけ ゴミ出しに

◆生ゴミよ お互い辛い 立場だな

川柳というよりグチに近いですな・・・・(;´д`)

 

お知らせ】
海江田事務所は、少々不便な立地(かなり田舎なもので・・)です。
にもかかわらず(むしろそのために)極めて眺望の優れたリゾート施設みたいなオフィスです。(上の写真のように)
とても感じの良い(?)女性スタッフが淹れたてのコーヒーでおもてなしいたします。(コロナ禍の折り、現在は缶コーヒーにしておりますが・・・)
これまでの税理士事務所のイメージを覆すような明るい雰囲気。
是非、一度遊びに来てください。
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5年後の我が社が「見える化」できてすごくよかった、というノウハウもありますよ。
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