なんだかひどく足りなかったような気がする・・―家族の幸福(しあわせ)・・・俺は充分貢献してきたのだろうか―Ⅱ

昔のアルバムを引っ張り出してめくってみて、東京で暮らしていた頃は一つの核家族として完結していたんたな、ということをあらためて感じた私。

そこから私はさらに何をくみ取ったのであろうか。

 

そうやって、アルバムをめくっていて、当たり前の話だが、カミさんも自分も随分若かったことに気がつく。

まあこの年なので、遠慮なく言わしてもらうが、若い頃のカミさんはかなりの美人である。(もちろん今でも・・)

写真を見ていて、今さらながらそのことに驚く。

 

そんな中に、1枚の家族写真があった。

私とカミさんと次女の3人が写っている。

背景から察するに、葉山の御用邸に隣接する公園にいったとき、そこの芝生の上で撮ったものだ。

 

私とカミさんが並んで座り、その前に幼い次女が寝そべって、これ以上はない、といった笑顔で笑っている。

ここに写っていないということは、おそらくこれを撮ったのは長女だろうと推察される。

 

長男はまだ生まれておらず、親子4人で出かけたときのものである。

あの頃は、家族でよく出かけていた。

子供が増えるにしたがって、「お出かけ」は準備や費用がそれなりに大変になっていったが、それでもしょっちゅうあちこち出かけていたのだ。

 

さて、写真に写る若い頃のカミさんは、なかなかの美人だと思う。

そして、幸せそうな表情をしている。

 

もともとぱっちりお目めのカミさんの瞳は黒く、私に寄り添い白い歯を見せて微笑んでいる。

このささやかな幸せに心から浸っているように見えながら、その瞳の奥に、私は微かな微かな儚い憂いのようなものを感じるのだ。

そしてその目は、なんだかもっと遠くを見ているようでもある。

 

この写真を見るときふと思う。

「俺はこの女性を幸せにできたのだろうか。この瞳が見据えているであろう未来に、俺は応えることができたのだろうか・・」

と。

 

今振り返ってみれば、カミさんの家族に対する献身的な貢献に比べて、自分の方は何かひどく足りなかったような気もする。

あの微かな憂いのようなものは、そんな未来を予感していたのかも知れない。

 

この一人の女性をもっと幸せにするのが俺の残された役割かも知れないな、と、30年以上昔の1枚の写真を眺めながらふと思った。

 

 

おしまい