古いアルバムの中に・・―家族の幸福(しあわせ)・・・俺は充分貢献してきたのだろうか―Ⅰ

年が明けて半月ほど経ったので、もう昨年のことになるが、コロナ禍の中で自宅待機を余儀なくされたことがあった。

私が東京に出張に行っただけで、社員が結構ナーバスになったので、やむなく自宅で過ごしたのだ。

 

もちろん、何のこともなく、待機したあとは普通に仕事に戻った。

待機中は、なんだか休みでもない、かといってガンガン仕事に打ち込むというわけでもない、というこれまでに経験したことのない中途半端な感じの時間を過ごした。

 

そんな中で、ちょっと仕事の手が空いたとき、古いアルバムをめくってみた。

久しぶりのことだった。

 

もう少し時代が進んだら「アルバムをめくる」という言葉自体がなくなるかも知れない。

写真のような2次元データはすべてデジタルの世界の中にスッポリ納まるからである。

 

紙のアルバムにプリントアウトしたやはり紙の写真を1枚1枚手で貼って思い出に浸る、などという行為は、過去の遺物として人々の記憶から消えてしまうのだろうか。

今の感覚からすれば、随分めんどくさい作業であろう。

 

まあそんなことはともかくとして、アルバムをめくっていると、手元にあるのは結婚をしてから後のものであることに気がつく。

長女が生まれ、次女が生まれ、ちょっと間があいてから長男が生まれた。

 

この3人の子供たちが生まれる間、私たちは東京で生活していた。

東京では完全な核家族で、私たち夫婦は幼なじみだったため、私の両親もカミさんの両親も同じ田舎に住んでいた。

 

田舎の生活と違い、親戚など地縁血縁関係が周りになかったので、家族の生活は、ほぼ家族で完結していたのだ。

完結していた、とはおかしな表現に聞こえるかも知れない。

 

しかし、田舎に帰って、家族の生活が自分の家族の単位では収まらないことに気がついた。

何かしら常に周りとの関係性がついて回る。

それを煩わしいと感じるか心地いいと感じるかはその人次第である。

           田舎にはロケーションの良さはありますが・・・・

つづく