描写は観察の力を高め、要約は考える力を働かせる―「言葉」について・・表現力はどうやって磨かれるのか―Ⅵ
簡明で実用的な文章を教えたい、という文科省の方針に対して山崎氏は、言葉の専門家として二つの実現可能な方策を提案してみようと言われる。
その方策というのは次のようなものであった。
― 第一は、昔、福沢諭吉が慶応義塾の生徒に教えたこと、文章でものごとを描写させる訓練である。
福沢はどこにでもある人力車を取り上げ、それを見たことのない人に分かるように文章で描けと命じた。
そこには情緒も哲学も入る余地はなく、ひたすら即物的で、しかし多様な語彙の柔軟な駆使が求められる。―
福沢諭吉が慶応の学生にそんな訓練を施していたとは知らなかった。
確かにこれはいい勉強になりそうである。
今でも行われているのだろうか。
「人力車」というテーマに時代を感じてしまうが・・
情緒や哲学を排して物事をひたすら客観的に描写するというのは、かなり難しい作業である。
特に見たこともない物理的な物の存在を、頭の中に描けるように文章で描写するというのは至難の業のような気がする。
話は少し逸れるが、私の仕事において、例えばコンピュータ会計をなかなか導入しようとしない経営者に対して、その利便性や効能を鮮やかに頭の中に描けるように説明するのは難しい。
相手はもともと否定的なマインドから入っているために、いくら論理的に説明しても、そもそも、肯定的な場面を描こうとしないからである。
こういう場合、繰り返し説得するか、周りの環境によって自然に「導入しなければ」という意識に追い込まれるときを待つしかない。
こういったケースでは、言葉の無力さを感じないでもないのである。
山崎氏が推奨するもう一つの方策というのは次のようなものである。
― もう一つ勧めたいのは、長い文章を要約する練習である。
対象の描写が言葉による観察の力を高めるとすれば、長文要約は人の考える力が言葉を通じてどのように働くかを教える。
ただの思いつきを言い捨てるのとは違って、共同体の共感と同意を得るために、人はどんな順序で考えを進めなければならないかについて教える。―
ここで言われる「ただの思いつきを言い捨てる」というのは山崎氏が意識しておられるかどうかはわからないが、現代のコミュニケーションツールである、ツイッターやインスタグラムといったSNS関係のことを思い浮かべる。
ここでは、一種の「共同体」に所属しながら、行なわれている行為はまさに「いい捨てる」に近いからである。
文章は「書く」もので「打つ」ものではなかったのですが・・・
つづく