枚挙にいとまがない―日本語を笑っちゃあおしまいだよ、の教訓―Ⅰ

昔、マーケティングリサーチの仕事をしていた頃、クライアントに納品する成果物は「レポート」だった。

数十ページ、ときには数百ページに及ぶレポートを書き上げて納品していたのである。

 

私たちは、リサーチを行なって、様々な生データを集めたあと、それをそのままの状態で納品することはしなかった。

必ず、そのデータを分析し、そこから得られるトレンドなり、先読みできる着地点などを、自分たちの見解としてレポートの形に仕上げて納品していたのである。

 

場合によっては、さらにそのレポートを報告会のような形式で、詳しく解説するというサービスまで行なっていた。

そういったレポートの解説は4時間5時間に及ぶこともあったのだ。

 

ところで、今日はそんなレポートについての話ではない。

そのレポートを書く際の「表現」についてである。

 

私は今でもそうだが、文章を書くとき、それが相応しいと思えば、つい古臭い表現や小難しい言葉を使ってしまうことも多い。

思春期の頃から、夏目漱石や森鷗外に始まって芥川龍之介、太宰治といった文学作品を読みふけったせいもあるのだろうと思う。

 

彼らの使っていた言葉や表現は、深い教養に裏打ちされた格調の高いものが多い。

とはいえ、それらは中国の古典文学や日本の古文などを基にしているので、今の世の中から見れば、やや古臭く難しいものが多いことも事実である。

 

ただ自分では、それがどれくらい古臭いのか、どれくらい小難しいと思われるのか、その程度がわからない。

いちいちグジグジ考えていてもしょうがないのでそのまま使ってはいるが・・

       古臭いオヤジですが・・・・

つづく