檸檬―ほろ苦き青春の思ひ出―Ⅳ(おしまい)
大学を終えた後の人生においても、様々な出会いや別れはあった。
出会った相手に、辛い思いをさせたりさせられたりしたと思う。
しかし、大学時代、比較的短い間の関係だった彼女のことが、ここまで強く心を占めるのには何か理由があるのだろう。
そう考えるとそれは、さだまさしの描く女性像にも原因があるのかも知れないと思った。
初期のさだまさしの歌には、儚げで繊細な感じの女の子がよく登場する。
その女性たちは、初めはこちらのことが大好きで、全面的に頼り切っているように見える。
しかし、必ずいつの間にか向こうの方から離れていってしまうのだ。
「ほおずき」とか「縁切寺」の歌詞をきいていると、そのことがよくわかる。
さだまさしの歌詞からは、何故そうなったのかは判然としない。
儚げでこちらを頼り切っていた存在が、真逆になるというのは、男にとって残酷でにわかには納得いかなことになってしまうのだ。
大学時代つきあった彼女には、初め、さだまさしの歌に出てくるその儚げな方の女性のイメージを抱いた。
しかし、最後は彼の歌と似たような結果になってしまったのである。
「まさか!」と、慌てふためいた私は、御茶ノ水界隈をさまよい、まるで「檸檬」の歌詞のように、聖橋の上から苦い思いで神田川の水面を見下ろすことになるのだ。
あのスクランブル交差点は、「檸檬」の歌詞にあるように
―まるでこの町は
青春たちの姥捨山みたいだという
ねェほらそこにもここにもかつて
使い棄てられた愛が落ちてる―
という、私にとって辛い思い出が投影される街の一角になった。
1978年作曲というから、私が七転八倒していたまさにその頃に書かれた曲である。
まあ、私とは何の関係もないことはわかっているが、そんな因縁を感じる1曲なのだ。
東京の夕暮れ
おしまい