あんなに他人(ひと)に尽くした人なのに・・・―義母の思い出、典型的な「日本の母」を彷彿させる人―Ⅲ(おしまい)
戦争が終わって、義母は、家内の実家である商家に嫁いだ。
子供を4人授かり(家内はその中の末っ子)舅や姑の面倒も最期まで見たようだ。
当時は、住み込みの従業員が何人もいたので、子供たちを含む大家族の世話を、何十年にも渡ってこなしてきた。
昔の商家の女主人というのは大変な立場だったのだろうと思う。
また義母は、料理、洋裁、和裁、編み物など何でもこなす人だったようで、そんな義母を家内は心からリスペクトしていた。
私も忙しい中、サマーセーターと冬の厚手のセーターを編んでもらったことがある。
サマーセーターはいつの間にか失くしてしまったが、取っておけばよかったと残念な気がする。
穏やかな人だったこともあり、末っ子の家内は、一度も怒られたことはない、と言っていた。
子供の頃は、いつでもどんなときでも自分は母親に庇護してもらえるんだ、という安心感の中で育ったとも言っていた。
その姿は、家内に強く影響を与えたのだろう。
家内が子供たちを強く叱ったり、ましてや手をあげたりしたところなど一度も見たことがない。
子供たちは、特に考えることもなく、それが当たり前、と育ったと思うが、元をたどれば義母の信条としていたところに行きつくのだ。
そんな義母が晩年、認知症がだんだん進んできたとき、家内はひどく悲しかったと思う。
あんなに他人(ひと)に尽くした人なのに、最後に自分の人生を楽しめないなんて・・・・と、思っていたようだ。
頻繁に、というわけにはいかなかったが、離れて住む私たちもできるだけ機会を見つけては義母を見舞うようにしていた。
そんな写真が何枚か残っている。
静かで貴重な時間だった。
義母の冥福を心から祈ろうと思う。
家族義母を見舞ったときの1枚。静かな時が流れていました。
おしまい