いつが一番幸せだったのだろう?―義母の思い出、典型的な「日本の母」を彷彿させる人―Ⅰ
義母が亡くなった。
たまたま東京にいた家内から田舎にいた私に深夜電話がかかってきたのだ。
入院していた埼玉の病院で、96歳の大往生だった。
その数日前、上京していたとき私も見舞ったばかりだった。
その後、私は家内を残して鹿児島に帰ったのだが、次の日の夜容体が急変し亡くなったという話だったので、聞いた私も戸惑った。
母親のことが大好きだった家内は、電話口で涙が止まらない様子だった。
義母は、大正12年生まれ。
つまり、大正、昭和、平成、令和の4つの元号を生きたことになる。
令和はほんの数日だった。
しかし、これも長寿ゆえのことだ。
義母の長い人生を振り返ったとき、いつが一番幸せだったのだろう、と思うことがある。
義母の青春時代の話は、家内から間接的にではあるが、よく聞かされていた。
東京の海軍記念病院(今の国立がんセンター中央病院らしい)で看護婦をしていた義母は、その銀座に近い立地の軍人さん専用の病院で短い勤務年数の間、とても充実した青春を過ごしたようだ。
いつも、その頃の話を聞いていた家内は東京への強い憧れを抱いた。
当時の日本橋から銀座のあたりというのは、本当の意味で日本の都会の中心だったのではないだろうか。
今でこそ、新宿、渋谷、原宿、青山、六本木など、東京の繁華街はいろいろと分散しているが、戦前の日本ではやはり銀座がダントツのステイタスだったのだろうと思う。
つづく