「情報収集」に投じた同じ分のエネルギーを「情報発信」に投じる―情報収集と情報発信はペアでなければ意味がない―Ⅲ

「情報収集」という言葉が、いろいろな「会」に参加するための言い訳であったならば全く意味がないのは何故でしょうか。

 

それは、こういった団体の会務に夢中になるあまり、本業の方がおろそかになる人が私の周りにも結構いらしたからに他なりません。

そういった本末転倒にならないためにも、こういった会の現場での「情報収集」という言葉がまやかしにならないよう気をつける必要があるのです。

 

それでは、こういった現場で得られた生情報を、単に名ばかりの「情報収集」に終わらせないためにはどうすればいいのでしょうか。

何かいい方法はないものか、私なりにその答えを考えてみました。

そして、その結果は次の一点に絞られることに気がついたのです。

 

それは、「情報収集」に投じた同じ分のエネルギーを「情報発信」に投じることです。

「情報収集」を行なった結果、得られた生情報は、咀嚼され加工され成形されて、やがて行動に移されなければ意味がありません。

 

最終的に行動を伴ってこその「情報収集」だからです。

しかし、行動に移すまでのこのプロセスには、膨大な時間とエネルギーを要します。

 

しかも、前述のように、そういった情報は、最初に入ってきたときは細切れぶつ切れ状態の生情報です。

うっかりすると記憶に定着しないまま、こぼれ落ちていく可能性があります。

 

そうならないためにも、一度記憶にとどめておくという作業が必要です。

それを私は「情報発信」という形で行なえばいい、と申し上げたいのです。

 

つづく