「判断基準」について改めて考えるⅡ
まあ「美人」の話はいいとして、そう考えていくと、極めて主観的な世界が許されるのは「好悪」の判断基準ということになる。
これまで「好悪」の判断基準はその他の基準に比べて「下位」のものとされてきたような気がする。
「好きか嫌いかなどというのは女子供(おんなこども)の判断基準だ。男たるもの「正悪」「正誤」の確固たる判断基準を持つべきである。」
なんてのが、かつての男社会中心の価値観だったのではないだろうか。
ところがこれが「ホントにそうかな?」と、何とも怪しくなってきた。
ビジネスの社会にいると特にそのことを強く感じる。
例えば近いところでは「すき家」のビジネスモデルは一時もてはやされた。
一店舗一人の従業員ですべて賄えるというオペレーションは、人件費を最大押さえられる画期的なシステムということで、たちまち全国展開するまでに至った。
ところが,深夜強盗が頻発し、あまりにも危険ということで多くの閉店を余儀なくされたのである。
また、ちょっと前までは、サムソンのビジネスモデルこそ世界最強最先端である、これこそ今日本は学ぶべきだ、と言われ、多くの研究本も出版された。
当時から私は大いに疑問を持っていたが、あの頃の著者たちは今でも同じことを言うのだろうか。
つづく