「判断基準」について改めて考えるⅠ
ものごとを判断するとき我々は様々な「基準」を用いる。
代表的なものは、正しいことか悪いことか(正悪)、正解か間違っているか(正誤)、好きか嫌いか(好悪)、美しいか醜いか(美醜)などであろう。
このうち、正悪、正誤は、自分だけの主観的な基準を用いるわけにはいかない。
世の中には一般的に正しいとされる基準や規範、或いは定理、原理といったものがあり、それを勝手に破ってしまえば、いくら自分が正しいと主張したところでそれは通らない。
ところが、好悪、美醜となると少し話は違ってくる。
多分に主観的要素が入ってくるからである。
これらは判断のための材料が千差万別であり、いずれをチョイスするかはその人の勝手であろう。
とはいえ、美醜については、世の多くが味方するものとそうでないものがある。
この事実に、自分一人で抗(あらが)うのはちょっとしんどい。
「美人」なんて言うのはその最たるものであろう。
自分だけ
「あんな女のどこがそんなにいいんだ。俺はちっとも惹かれない。」
とつっぱってみても、世の中が認める美人は大抵美人である。
つづく