あの頃の俺はいったい何をやっていたのか?―自分の世界を見直してみた―(後編)

昔読んでいた文学書のボリュームと内容を見て驚いた。

「俺は学校の勉強などちっともしなかったけれど、こんな小難しい世界に踏み込んでいたんだ。」

と、改めて驚かされたのである。

「これって或る意味、学校の勉強よりもハードル高かったんじゃないのか。」

とも思ったのだ。

 

しかし、このこと一つとっても「いかにも俺らしいな。」とも思う。

いつもそうなのだが、そのときやるべき当たり前のことをやっていない

 

勉強するべき時にやらない、親や先生の言うことを守らない、学業をほっぽらかして蒸発する、カミさんが大変な時に手伝わない、仕事するべき時に他のことをやっている、業界の役職などもそれまで通りにはやらない、みたいな感じで、いつもなんだかズレていた。

 

その時々に、世間や周りが要求する当たり前のこと、常識的なことをそのままやっていれば良かったはずなのにそうしなかった。

その辺をもっとちゃんとしていれば、随分違った人生になったんじゃないかな、とは思う。

 

とにかくそうして長い間、それができなかった自分を責めていたのである。

そんな中でも特に、カミさんや仕事のパートナー(女性ですけど)に迷惑かけてきた点に関しては今でも申し訳ないと思っている。

 

ただ、勉強をしなかったことやそれまでの慣習通りに行動をしなかったことなどは、極めてパーソナルな世界の話である。

仮にそのことで不利益があったとすれば自分に跳ね返ってくるだけのことだ。

 

そして実際、

「ほら見ろ。努力や忍耐を怠った結果、こんなことになってしまった。お前にとって不利益しかなかったじゃないか。」

と思っていた。

しかし、である。近年、少し違った見方をするようになってきた。

 

その一つの現れが、先述の思春期から若い頃にかけての読書に関する見解なのだ。

先述したように、あれは私が怠け者で、勉強が嫌だったからそっちの世界に逃げ込んでいた、と思い込んでいた。

 

しかし、ただの逃避先としてはちょっと重たすぎる、ということに気がついたのである。

そう、確かにあの頃真面目に受験勉強に励んでいた奴は、私の周りにいくらでもいた。

とはいえ、ドストエフスキー全集を読破した奴など、おそらくそんなにいなかっただろうと思う。

 

考えてみれば、あれって、受験勉強に匹敵するくらい、或いはそれ以上に難しい世界と格闘していたんじゃないのか、ということなのだ。

ただそれは、ひたすら真面目に受験勉強に取り組んで難関大学の合格を目指す、という進学校に入学した際の当初の目的とは関係ないものになってしまった。

 

勉強をしなかったことで、せっかく入った進学校をドロップアウトする羽目になって何もかも失ってしまった、との思いが強すぎたために、その代わりに掴んだ何か、手に入れたもののことは、すっかり頭から抜け落ちていた。

こんなことをこの歳になって、改めて見つめ直しているのである。

 

昔買い揃えて、今でも目の前の本棚に並ぶ相当なボリュームの文学全集を眺めていると、いずれにしろこれを読むんだったら、あの頃読んでいてよかった、とつくづく思う。

これからこれらを初めてインプットするとなると、とてもじゃないが対処できないだろう。

これはドストエフスキー全集。

 

若かったゆえ、体力に任せて力技(ちからわざ)で読み切ったということもあるのだ。

逆に、今みたいに、こうやって書くという形でいろいろな思いをアウトプットしよう、と思っても、当時ではまだ難しかったのではないだろうか。

 

そういう意味では、時期的に結構いいタイミングでインプットアウトプットを繰り返しているのかも知れない。

せっかく受験勉強まで犠牲にして、読書に没頭することで手に入れた世界だ。

これを活かさない手はないだろう。

 

というわけで、私は今、こうやって文章などを書いている。

近頃、そのペースは落ちてきたものの、これまで書いた量といえば相当なものである。

書くこと、またそれを話すことで、自分や自分の事業をアピールしてきた

 

つまり、昔、読書という形でインプットした基礎があったから、今、執筆という形でアウトプットできているのではないだろうか。

まあこれが、どれほど自分の人生や事業の役に立っているのかはわからない。

 

しかし、かつて、ダメだダメだとしか評価していなかった自ら選んだ行為が、今、こうして何らかの形で活きているというのは悪い話ではない気がしている。

夏目漱石全集と芥川龍之介全集

結構壮観ですね。

 

おしまい