あの頃の俺はいったい何をやっていたのか?―自分の世界を見直してみた―(前編)

遠い昔の話だが、いわゆる中学お受験をしてせっかく入った中高一貫の進学校を、勉強について行けず、高校進学時に転校してしまったことがあった。

成績不良で追い出されたのだ。(まあ、自分から出ていったわけですが・・)

 

小学校までは、まあまあの優等生だったので、これはかなりのショックだった。

よもや成績不良で落第の憂き目に会うようなことが自分の身に起こるなどとは、夢にも思っていなかったからだ。

しかし、現実にその進学校での成績はビリだったのである。

 

それから長い間、

『なんで俺はあんなことになったのだろう・・・それほど悪い頭でもなかったはずなのに。なんであんなことに・・・』

との思いがずっと拭えないでいた。

とはいえ、ダメになった理由は簡単である。

その手の学校に入ったにもかかわらず、ほとんど勉強をしなかったからだ。

 

それではあのとき、何故あんなに勉強をしなかったのだろうか・・・今でもわからない。

まあ、もともと勉強が好きではなかった、というのが一番の理由ではあるが、環境的にはせざるを得ない状況だったのに、である。

そもそも勉強だけしていればよかったのだ。

 

その証拠に、ほかのほとんどの同級生は、ちゃんと真面目に勉強していた。

にもかかわらず、私はしなかったのである。

 

当時は下宿していたので、テレビも思うように観ることはできなかったし、今みたいにゲームその他の娯楽などもなかった。

それでは私は、いったい何をやっていたのか?

 

ひたすら読書に没頭していたのである。

文学作品を読みまくっていた。

今思い出してもそれはわかっている。

 

読書をしたいから勉強をしなかったのか、勉強をしたくないから読書をしていたのか・・・私はずっと後者だと思っていた。

勉強から逃げるために読書に傾倒していたのだと。

つまり、苦しい勉強を逃れるための逃避先として、文学の世界に浸っていたのだと思っていたのだ。

 

おそらくその分析は間違っていないのだろう、と今でも思う。

あのとき、そんな逃げ根性がなければ、ちゃんと成績も確保できていて、無事その高校にも進み、その後の大学進学なども、もっとうまくいったはずだ、と。

 

文学にのめり込んでいたのは、勉強から逃げるための方便だった。

だからお前はダメな奴だったのだ、というのが長い間自分に対する評価だったのである。

 

ずっとそういう評価を自分に下していたのだが、先日ふとあの頃読んでいた文学書を手に取ってみた。

本棚には、当時読みまくった世界文学全集、日本文学全集が並んでいる。

 

その他に個人全集として、日本文学では夏目漱石全集、芥川龍之介全集、太宰治全集などを収集していた。

外国文学では、ドストエフスキー全集、トーマス・マン全集、ヘルマン・ヘッセ著作集などがあった。

全部合わせると、かなりのボリュームだが、私はこのほとんど読破している。

 

その中の一冊、ドストエフスキーの「罪と罰」を手に取ってみた。

かなりの分厚さだ。文字は小さな級数で1頁2段組みになっている。だから1頁の文字量は相当なものである。

そしてなんと、この本は700頁を超えていた

 

近年発売される書籍で、300頁を超えるものは珍しい。

また、字もかなり大きくなっているので、昔に比べて全体の文字数もそれほど多くはないだろう。

 

ドストエフスキー以外の書籍も手に取ってみた。

いずれもほぼ400頁は超えていて500頁台のものも珍しくない。

中には900頁を超えるものもあった。

文字の級数も小さい。

 

あの頃、俺はこんなものを読んでいたのか!と、改めて驚いた。

今、これを読め、と言われても、到底無理だろうと思う。

体力的に続かない気がする。

 

中学くらいから芥川龍之介や夏目漱石、高校から浪人中、大学時代にかけてはドストエフスキーやトーマス・マンなどを読んでいた。

いずれも純文学で大衆小説や娯楽小説の類ではない。

しかも、一つ一つのボリュームがすごいのだ。

ズラリと並んだ蔵書類

つづく