モノを減らす一つの理由―数値的、論理的に考えてみた―

アンチ「断捨離」宣言

身の回りからとにかくモノを減らしていく、というのが一種の流行みたいになっている。「断捨離」という言葉には著作権らしきものがあるらしいが、既に一般的な用語として世の中に定着した感もある。

しかし、私はそのアンチテーゼとして、モノをいっぱい持っていることの楽しさ、心の豊かさみたいなこともあるんじゃないか説を以前書いたことがある。そのときは

「ただ減らせばいいってもんじゃないだろう。モノを持つ楽しさだってあるんだ。」

というのが私の言い分だった。

 

カミさんの言い分

しかし先日、カミさんとちょっとしたことで口論になったあと、考えさせられた。それは、私が服や靴を持ち過ぎていると非難されたのがきっかけだった。

まあ確かにそうだけど、だからといってカミさんにそれほど迷惑をかけた覚えもない。お互い好きに暮らしているんだから文句を言うなよ、というのが私の主張だった。

これに対して、

「でも、物理的にあなたのモノが私の領域を圧迫してきているじゃないの。」

というのが、カミさんの極めて具体的かつ現実を示している言い分だったのである。同じ着るものにしても、私の服一枚分の分量はカミさんのそれの倍近くにはなるので、まあ圧迫しているのかも知れないな、と思う。靴もその靴底面積は1,5倍くらいにはなりそうである。(本当は数の問題なんですけどね・・)

 

意外に気持ちいい

売り言葉に買い言葉。「ああそうかい。わかったよ。」ということで、その日のうちに靴を10足くらい捨ててしまった。中には、いいと思って買ったもののそんなに履いていないもの、昔よく履いていて好きだったけどもう何年も履いていないものなどがあった。

いずれにしても、ここのところそんなに使っていないのだから、今後も使う可能性は低いものだった。とはいえ、かつて愛用したものなどもあったので、捨てきれずにいたのである。

しかし、である。

そうやって思い切って捨ててみたら、なんか案外気持ちがいいことに気がついた。

カミさんの領分を圧迫していたスペースも、無事領地返還することができたのである。

「そうか、捨てりゃあいいんだ!」ということに気がついた。もったいない、という気もするけれど、目の前から永遠に消えてしまえば諦めもつく。

 

割り算で気づく現実

と、そこで、さらに突っ込んで考えてみた。

それは、所有しているモノの量と残りの人生時間ということである。

私は、現在72歳。極めて健康とはいえ、人生残された時間はそう長くはないだろう。

その「残り時間」と「モノとの付き合い」ということを考えたのである。頭の中でざっと計算してみた。これくらいかな、と思う人生の残り時間を、持っている服の数で割ってみたのである。

そうしたら、一枚の服を着ていられる時間はそれほど多くないことに気がつく。お気に入りの服と思っていたところで、そいつとつき合える時間は、もうそんなには残っていないのだ。

現実には、一日のうちの半分くらいは部屋着か寝間着みたいなもので過ごしている。だから、外の世界で他人(ひと)に見られるファッションというのは、もっと短い時間しか身につけていないことになるだろう。

 

心の整理をつける必要が・・

服や靴をそこそこ持っていたところで、それを着たり履いたりする時間はもうそんなに残されていない、ということを自覚する必要がある。

若くない、ということはそんなリアルを突きつけられる厳しい現実でもあるのだ。

だとしたら、もし服や靴が好きでこだわりがあるのであれば、それほど気に入ってもいない服、履き心地のあまり良くない靴などを着たり履いたりしている時間はもったいない、ということになる。着ていて履いていて楽で、品質が良く、見栄えもまあまあといったバランスの取れたものを、数少なく所有して、それらと長く付き合う方が賢いのではないか、という結論に達するのである。

もともと着るものに頓着がない、という人はこんなことも考えなくていいのだろう。しかし、服や靴が好きで、これまで散々買いまくっていた身としては、そんな風に心の整理をつける必要があるのである。

 

センスを磨くという高度な要求

老後の生き方について、いろいろ書かれた本など読んでいると、つき合う人の数やそれに伴う世間的なしがらみなどはどんどん減らしていくべき、などと記してあるものが多い。まあ、その通りだろうと思う。

と、同時に身の回りのモノも減らしていくべき、とも書かれている。しかし一方で、年を取るほどにお洒落などにも気を配るべきであり、装うことに無頓着になったら老け込んでしまう、とも書いてある。

少ない服でお洒落に見せるというのは、それなりにセンスを磨かなくてはいけない。

モノを減らしつつお洒落も磨くなどと、年を重ねてからにしては、随分難しい高度な要求を突きつけられるもんだな、ということになる。

しかし、前述のように、残された絶対時間の中で、多くのモノを持ったとしても、それに費やせる時間はかなり限られてきているのだ。モノの頭数を減らして、気に入ったモノとじっくりつき合う方が理に適っているのは間違いない。

今回、たくさんの靴を一気に捨ててみて、案外気持ち良いことに気づかされた。

一番大事なのは「モノ」ではなく「時間」だとすれば、やはり少ないモノの中で時間を有効に使うという選択が最も正解なのかも知れない。

これも大事な時間