尊敬する人は?・・・―一般的な意見とはいささか異なる私の見解―
感謝はしているけれど
近年、何かのアンケートで「あなたの尊敬する人は?」という質問に「両親」という答えが一番多かった、という記事を見て、相当な違和感を覚えたことを思い出しました。こんなことを書くと「じゃあお前は両親を尊敬していないのか?」と、まるで親不孝者みたいに非難されそうですが、そんなことはありません。私も親には充分感謝しているつもりです。
中学から私立に行かしてくれたし、浪人時代も面倒を見てもらいました。おまけに結構いい歳をしてから入学した大学院での学業に際しても、資金面で援助してくれました。親にある程度の経済力や理解がなければとても通ってこれなかった道です。
「普通の人」だった私の両親
しかしながら、「尊敬する人は?」という質問をされて「両親」という答えは私の中からはまず出てきません。他人(ひと)よりは随分世話になったとはいえ、「尊敬」という言葉の対象とならないのは何故でしょうか。
それは、私の両親が「普通の人」だったからです。
私の両親の場合、いいところもあれば欠点もまたそれなりといった、世間によくいるタイプと言って間違いありません。世の中の大抵の親もそうだと思うのですが、それでも「尊敬の対象」となっているというのが、私には不思議な気がします。
「尊敬する人」を「両親」と答える今の若い人たちは、随分「良い子たち」なんだなあ、と思います。これは皮肉や当てこすりでも何でもなく、彼らは本当にそうなんだろう、と思うのです。
翻って私の世代はどうなんだろう?と考えます。学生運動全盛時代の少し後の世代である私たちは、親を含む古い世代を徹底的に否定してきた、と言う記憶があります。
私たちに近い年代で、「尊敬する人」を何の躊躇もなく「親」と答える人は少ないのではないでしょうか。とはいえ、他人(ひと)のことはわからないものです。案外、そんな人も多いのかも知れませんが。
尊敬の対象は、かなり偉い人、遠い存在
ただ、私は先述したように、残念ながら違います。このことを少し突っ込んで考えてみました。
その要因の一つは、「尊敬」という言葉への解釈、ということがあるような気がします。どういうことでしょうか。
「尊敬する人は?」と聞かれて私の世代は、野口英世とかシュバイツァーとか答える人が多いものでした。彼らは自らの命や人生を犠牲にして、人類に貢献した偉人として教えられました。今ほどいろんな情報が溢れていなかった世の中では、そんな数少ない「偉人」に対して、割と無条件に尊敬のまなざしが注がれたのです。
つまり、尊敬の対象は両親のような身近な人ではなく、かなり偉い人、遠い存在といった印象が強かったような気がします。そこにおける評価の基準は才能、才覚だけではなく、人柄、人格も立派である、ということも含んでいたのではないでしょうか。
現代のスーパースターは・・・
この「尊敬」という言葉の持つ意味が少し変化してきたのは、世の中の流れが変わってきたせいかも知れません。その現象の一つとして、一般人の情報収集能力が、格段に進んできたことが考えられます。
例えば、先ほど取り上げた野口英世は、立派な医学的功績をあげたとされながらも、私生活においてはかなり破天荒な人で、お金や女性関係などでいけば、とても尊敬に値するとは言えないような面もあったようです。そんな情報も、取ろうと思えば取れる世の中になってきました。
そこで、例えば現代のスーパースターである、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズやイーロン・マスクなどのことを振り返ってみると、ものすごい才人ではありますが、人格的に尊敬に値するか、といえばかなりの疑問符がつきます。スティーブ・ジョブズなど、相当な変人だったとも言われています。
つまり、情報の量と質が膨大なものになり細分化された結果、そう簡単に「尊敬します。」とは言いにくい世の中になったような気がします。その代わり、先述のスーパースターたちは、羨望のまと、憧れの対象、といったやや現実路線に近い存在になったのではないでしょうか。
尊敬するんだったらもっと偉い人を
私が若い頃想定していた、やや重たい存在としての「尊敬する人」という考え方はいつの間にか消えてしまったのかも知れません。そこで、もっと身近な意味での「まあ、割と尊敬とかしちゃってます」的な存在として「両親」というのが浮上してきたのではないか、というのが私の見解です。
ということで、さらに現実的に的(まと)を絞って、自らを振り返ったとき、私の子供たちが私のことを「尊敬」の対象としてみるか、といえばさすがにそれはないだろうな、と思います。こっちとしても、全く自信はありません。
ただ「両親」というのはあり得なくても、カミさんだけが尊敬されている可能性はあります。なんといっても極めて真面目な性格で、まっすぐに子供達と向き合ってきていますし、子育てにおいても手を抜いたことはありませんでした。
その点、私といえばかなりテキトーに生きてきましたし、子供たちのお手本になるようなことは微塵も見せていませんしやってもいません。そもそも「俺のことなんか、間違っても尊敬とかするなよ。尊敬するんだったらもっと偉い人を想定しろ。」と言うだろうなあ。
人間は、欠点だらけだから面白い
しかし、人間という存在をよーくウォッチングしたときに、人格的にものすごく立派で欠点のない人なんてそもそもいるんだろうか?とも思います。『ああいう人になりたい。』というのが尊敬の定義の一つだとすれば、全面的手放しにそう思える人は、私の場合いないなあ。
逆に人間というのは、欠点だらけだから面白いと思っています。その欠点も、場合によっては「あいつのああいうところが、憎めなくて好きなんだよなぁ~」となることが多いのではないでしょうか。
そういう意味では、ストレートに「尊敬する人は?」と質問されても、現代ではちょっと答えるのが難しいというか、その問い自体時代に合わないんじゃないか、と思っているのです。
尊敬とかするんじゃねえぜ。
孫には好かれたいけど・・