若いときの旅がなければ老いてからの物語がない
―さあ時は満ちた。何にチャレンジするか!―

「若いときの旅がなければ老いてからの物語がない」という言葉があります。

昔、何かの文献で読んだような気もしますが、はっきりとは思い出せません。これは巷でもよく使われるフレーズなのだろうか、と調べてみたところ、フランスのジャン・コクトーの言葉とされてもいるようです。

この言葉の意味としては、おそらく

―若い頃、いろんな経験を積んでいないと、年をとってから他人(ひと)に話す話題に事欠くものだ。―

といったところでしょう。

実際そんな解説も成されています。

ただ私は、この言葉を最初に聞いたときから、何か妙に惹かれるものがありました。なんだかもっと深い意味があるような気がしてならなかったのです。言葉の表面からは、確かに先述のような意味しか汲み取れません。しかし、それでは面白くもなんともない気がします。

ところで今、この言葉にあるように、実際に年をとってしまった私がいます。(なんと72歳になっちまいました!)それではその私が、例えば暖炉の前のロッキングチェアにでも座り、パイプ片手に遠くを見つめるように、若い頃の思い出話など語るのかといえば、そんな気はさらさらありません。(まあ実際には、暖炉もロッキングチェアもパイプもないわけですが・・)

私は、この言葉をこう解釈しました。

―若い頃、いろいろと経験していなければ、年を重ねてからもっと大胆なことに挑戦しようと思ってもできるわけがない。―

これはつまりどういうことかと言うと、

―若い頃いろんな経験を積んでいれば、そういった挑戦に伴う困難やリスクなどと、自分の力量との差や距離感といったものを掴むことができる。そこがわかっていれば、年を重ねてもっと経済力や人間力が身についたとき、若い頃ではとても挑戦できなかったような、まるで物語になるくらいの大胆な挑戦もできるのだ。―

といった解釈になるのです。

若い頃、挑戦的だった人間が、年を取るほど保守的になる、というのはよく聞く話です。

しかし私は、若い頃の方がスケール的にはそれほど大きなことはできないので、却って保守的にならざるを得ないのではないか、と思っています。

その点、経済力や人間的あつかましさなどを身につけた年齢になれば、或る意味怖いものなしにいろんなことにチャレンジできるのではないでしょうか。

さて、「で、お前はなにかそんなことを企んでいるのか?」と問われたならば、「まあ、そうかもね。」とはぐらかすことになるのかな。

若い頃の旅はある程度経験しました。

さあ、これからは「俺の物語」を紡ぐ番です。

ボンヤリと椅子に座って昔話などやっている隙はありません。

では、何を企んでいるのか・・・それは今のところ内緒。

マドリードの闘牛場の前で。

まさか、闘牛にチャレンジはしませんけどね(^^♪