思わぬところに人の縁が・・―「ねえ、お兄さん・・」このひとことから始まった或るエピソードーⅤ(おしまい)
あのう、ちょっといいですか?
この日、とても丁寧に磨いてもらったその靴磨き店を出たあと、お土産など買おうかと歩き始めたときのことでした。
私は突然呼び止められたのです。
「あのう、すみません。ちょっとお話いいですか?」
『えっ、なになに・・』
私は心の中で身構えます。
だいたい、道を歩いていて「ちょっといいですか?」と声をかけられてろくなことになった試しがありません。
身構える私に彼は
「あのう、先ほど立ち寄られた靴磨き店の者です。」
と話しかけてきました。
私は心の中で
『ああ、なんだそうか。でも、追いかけてきてまで何の用なんだろう?』
と新たな疑惑が湧きます。
「あ、ああ、そうなんだ。え、で、なに?」
ついさっき会ったばかりで、かつ丁寧に私の靴を扱ってくれた人だというのに、顔も覚えていない自分が少々情けなくもあります。
その彼が次のように切り出しました。
「あのう、以前うちの店での出来事についてネットに文章を書かれていましたよね。」
『うっ、あのことか。そ、それにしてもあれがなにか・・・・』
と、やや話が違う方向になってきたことに、私はさらに身構えます。
「ああ、あれね。まあ、あんなことちょっと書いちゃったけど・・ところで書いたのが僕ってよくわかったね。」
「先程、店のスタッフと会話されているのを聞いていてわかりました。一度、お話をさせていただきたくて。」
まだ私はピンときていません。
こりゃあ、じっくり聞いてみるか
「そ、そうなんだ。で、お話というのは?」
「はい、お客さんの文章に書かれていたあのスッタフのことですが、実は彼には私が新人時代に結構つらく当たられまして・・」
『そうか、やっぱりあいつの話か。それにしてもなんか面白い展開になりそうだぞ・・』
と、心の中で思った私は、今立ち話している、人通りの多い場所から少し端っこに彼を促しました。
『こりゃあ、じっくり聞いてみる必要がありそうだ。』
と思ったからです。
さて、目の前の彼の話によると、私が注意したあの男より後に入社した彼は、新人時代あの男に結構きつく当たられたというのです。まあ、いうなればイジメという奴でしょうか。仕事に対して自分なりのポリシーやプライドを持っていた彼は、そうやって先輩風を吹かされあまりに理不尽な扱いを受けるので、すっかり腐ってしまったという話でした。
もうやめちゃおうかと思っていたある日、仕事を終えて家に帰ると、彼の奥さんに
「ねえ、あなた。ネットにこんな文章を書いている人がいるわよ。」
と見せてくれたのが私のコラムだったというのです。
お役に立ててうれしいよ
そこには、普段彼があの男に抱いていた思いとシンクロするような、私のエピソードが書かれていたのです。それは、結果的に彼を励ますことになったらしいのです。
そうして、彼は『ああ、自分は間違っていなかったんだ。』と思い、仕事を続ける勇気が出た、ということだったのです。
つまり、私のコラムが、一人の人間を励まし、元気づけたことになります。しかも、結構重要な判断に寄与したことになったのです。
「へぇー、それは良かった。あなたのお役に立てて僕もうれしいよ。で、彼とはその後どうなったの?」
と聞くと、あの男は結局会社を辞めたという話でした。
一緒に働いていた当時、結構上から目線で、プロとしてあり方がどうのこうのなどと、いろいろと言われたようでした。
しかし、私からすれば、あの男に対しては
『君こそ、全然なっていないよ。一人前の社会人としてもっとちゃんとした方がいいよ。』
と言いたくなるくらいの接客態度だったのです。
しかも、今思えば、肝心の靴を磨くスキルもどうだったのか?・・今日話している彼に比べても、とても丁寧な仕事とは言えなかったような気がします。つまりあの男は、対顧客という外に対しても、対同僚という内に向かっても、あまり感心できる勤務態度とは言えなかったことになります。
直に接触するのは初めてのこと
しかし、今となっては、あの男のことはどうでもいい話です。私の書いた文章が一人の人間を励まして、仕事を続ける力になれたとすれば、こんなうれしいことはありません。
別れ際、彼に
「君、いい奥さんでよかったね。どうか奥さんにもよろしくお伝えください。」
と、私の文章を見つけてくれた彼の奥さんにも感謝の意を伝えました。
私は、自分の書いているブログやコラムがどんなふうに読まれているのか、どんな層の人たちが読んでくれているのか知る由もありません。そんな中、今回のように誰かに影響を与えた、という話を直接聞くのは初めてのことでした。しかもそれが、いい影響だったというのはうれしいハプニングというしかありません。
まあ、ブログやコラムには、できればあまりネガティブなことは書かない方がいいに決まっています。とはいえ、さすがにこれはどうよ!と思うようなことは、今回みたいな期待も少しはこめながら、私なりに訴えていくつもりです。
今回話をした彼が磨いてくれた靴。
買ってから20年は経過しているにもかかわらず
ピカピカになりました。
おしまい