観るに値しない番組と偏向報道―私がマスメディアから離れた理由(わけ)―Ⅰ

もう何年も前のことになるが、勤めを終えてうちに帰ると必ずテレビはついていた。まあ、これは当たり前の風景で、カミさんは家事をしながら、見るともなくなんとなくずっとつけっぱなしだったのだ。

いつの頃からか、私はこれが嫌で、家に帰るとテレビがついているという当たり前の風景に、何とも言えない鬱陶しさを覚えていたのである。かといって、別にそのことをカミさんに告げるわけでもなく、そのまま夕食の時間となる。

そのときになって私は「この番組観てる?」とカミさんに聞く。そこで「別に。」という返事だったら「じゃ消していい?」と、一応承諾の上でテレビのスイッチを切っていた。知らず知らずのうちに、それくらい、テレビにはうんざりしていたのである。

 

その後、カミさんが孫たちのところへ行ってしまい、一人暮らしをするようになってもう4年近く経つから、これはその前の話だ。つまり、テレビがいやになったのはここ2,3年の話ではなくて、それよりかなり前から嫌気がさしていたことになる。

今の若い年代は、私と同じようにあまりテレビは観ないらしい。当然ではあるが、一人暮らしになった今は、なおのことテレビは観なくなった。撮りためた映画はよく観るので、正確に言えばテレビ画面で地上波番組を観ることは全くなくなった、ということになる。

 

さてそうなって何か困ることがあるかといえば、それはほとんどない。そもそも、テレビが嫌になった最初の原因は、お笑いタレントをスタジオに集めてワーワーやっている安直な番組にばかりなってきた現状にうんざりしたからにほかならない。あとは、食い物屋を巡るものとかクイズ番組でお茶を濁しているように見えた。つまり、ほとんどすべての番組が観るに値しないと思えるようになったからだ。

 

ここで、一つの疑問が湧くのではないだろうか。報道番組はどうか?ということである。

テレビの重要な役割にニュース報道というのがある。当然新聞よりその即時性には優れているし、コメンテーターなどの突っ込んだ解説もあるのだから見る価値はあるのではないか、ということになる。

 

しかし、テレビから離れた大きな要因はここにもある。つまり、報道という世界がかなり欺瞞に満ちている、ということがだんだんと判明してきたからである。

何を報道するのか、或いはしないのか。また、どう報道するのかという点については、驚くほどテレビ局の恣意性が介入しているということがわかったのだ。特に「報道しない自由」というやつを駆使されたら、正確な世の中の状況はまずわからなくなる。

日本人はかなりその只中に置かれているのではないか、ということが次第にはっきりしてきた。ニュースこそ我々がミスリードされる要因になりかねない、という危惧を抱くようになったのである。

 

というわけで、地上波テレビを観なければならない要素の大半は、私の中から失われてしまった。そうしてテレビを観なくなってもう何年も経つが全く困ることはない。私自身、情弱(情報弱者のことをいう)」ということにもなってはいないつもりだ。

たまに芸能界などで騒がれる不倫がどうしたこうした、といった新着情報を知らないことがあっても、別に何一つ困ることはない。私にとってはどーでもいい話だ。かくして、もう何年も前からテレビは私にとって無用の長物となった。

これは昔テレビに出たとき女子アナと

つづく