その形態や存在そのものが既に現代的ではない新聞―私がマスメディアから離れた理由(わけ)―Ⅱ
低俗な番組や偏向報道などにウンザリしてテレビ離れした私だが、マスメディアはテレビばかりではない。
さて、次は新聞である。これもすでに私の前から姿を消している。テレビと違って、生理的な拒否感というのは特になかったので、新聞までが私の前から姿を消すというのは、計算外のことだった。しかし、その存在の意味に関していろいろと考察したあげく、やはりいらないかな、との結論に達したのである。
新聞はテレビと違って、娯楽の要素は少なく、やはり報道中心の情報ソースとして私には欠かせないものであった。近年、スポーツ欄に全く興味が無くなったので、なおさら娯楽性を求めるという要素は消えてしまった。
そのほか新聞において、重要なのは文化面ということになるだろうか。書評や人生相談といったコーナーはそれなりに読み込んでもいたのだが。書評については、ネットでもいろいろと検索することができるので特に不自由はしていない。人生相談は私にとっては半分娯楽的な要素も含んでいたので、ブログなどのネタにすることもあった。しかしまあこれも、目の前から無くなっても仕方がないとあきらめた。
さてこの新聞であるが、これも先述のテレビと同じように、かなり恣意性が高いということが鼻についてきたのである。その新聞社の意に沿わないことはまず書かれていない。それどころか、ある方向に世論を誘導したいという方針が出たときは、かなり強引にそっちに持っていく、といったことも割と普通に行なわれている。
例えば、税に関する専門的な見地から言えば、軽減税率導入の際の偏向報道などひどいものだった。あのときは、あきれるほど強引に8%の枠を自分たちの業界に引き込んだのである。その前から新聞に対する不信感はあるにはあったが、あのキャンペーンは私にとって決定的だった。
その後、アメリカ大統領選、中国韓国への忖度報道などの実態を見るにつけ、日本の新聞における国際情報発信力の脆弱さは、私を不安に陥れるくらいのレベルのものに思えた。世界のあちこちで起きている、或いは起きつつある危機的な状況などの正確な報道は、日本の新聞ではほとんどなされていないようである。
こうして、テレビを観なくなってから数年後の昨年、新聞を購読することもやめた。ちょっと残念なのは先述の文化欄かも知れないが、そのために新聞購読を復活させるほどの動機にはならない。
さらに新聞には、大量の紙を消費している、という決定的な欠点がある。しかも、扱いに困るくらいその面積がデカい。かさばるから、毎日大量のゴミとなる。いろいろなものがデジタル化かつコンパクト化した現代において、その存在はいかにも鬱陶しいものに見えてしまう。つまり、新聞はその形態、存在そのものが既に現代的ではないのだ。
テレビは主としてそれぞれの家庭なりプライベートな場所で観るものだろうから、観ている姿が家族など近親者以外の他者の目に触れることは少ないだろう。しかし、新聞は公の場でもよく読まれている存在だった。ラッシュ時はともかく、ゆっくりと座っていられる時間帯などであれば、電車の中でも新聞を読んでいる大人というのは昔はいたものである。しかし、そんな風景も今では皆無となった。先日、スタバで新聞を広げて読んでいる年配の男性を見てなんだか違和感を覚えた。それくらい、特に屋外において、新聞を読んでいる風景というのは珍しい存在になってきたといえるだろう。
これくらいの大きさだとかさばらないのですが・・・
つづく