的が見えていなければ話にならない―天才と賢い人の違いは?の問から考察する現実―Ⅱ

「デカンショ」という言葉で有名な哲学者ショーペンハウエル。(ちなみにデカンショは、デカルト、カント、ショーペンハウエルのことです。)

その才覚ある人と天才の違いを見事に表現した彼の言葉に感心した私。

 

賢い人というのは、一般人にとって

「見えてはいるのだが、到底その的に当てることは無理だろう」

と思えるような難しい的に矢を当ててみせるから、周りの称賛を得ることになる。

つまり、普通の人には一応見えてはいたり、想定できてはいるものの、

「あんな目標を達成するなんてとても無理だよなー」

といったことを達成して見せるから、優れた才覚のある人として認められるのだ。

 

まあこれだけでも、そんな人物は自分の周りにそうそういるものではない。

特に地方においては、平成以降、そんな人(私の場合、主に「経営者」ということになりますが・・)を見る機会はほとんどなくなった、と言っていい。

遠い、大きな的を見据えて、それを射抜くために尋常ならざる才覚を発揮する、といった場面を見ることはまずないのである。

 

そんな周りの状況に気がついたとき、何故だろうと考えた。

何故、私の周りには困難かつ大きな的を射ようとする才覚ある人がいないのか。

 

しかし考えてみれば、ここには一つ必要な条件がある。

それは一応「その的が見えていなければならない」ということである。

 

これはいったいどういうことか。

それは、例えその的が遠くても、「あれくらいのことが達成できればすごいんだけどなあ・・」とか「あんな目標を目指したいものだよなあ・・」とか、視認できる範囲の目標とか理想のような何か、がなければ始まらない、ということである。

 

この事実を考えたとき、私の身近で問題になるのは、そのよく見てみれば見えるはずの遠い的すら見ようとしない人が多い、ということに気がつく。

遠くにある的をまず見ないことには、なにかを達成するための、スタートラインにすらつくことはできない。

的は遠いのだ

 

 

つづく