買い被っていただけなのか・・・―天才と賢い人の違いは?の問から考察する現実―Ⅲ
誰にも射ることのできない難しい的を射ることができるか、誰にも見えない未知の的を射ることができるか、が才覚ある人と天才の違いと喝破してくれたショーペンハウエル大先生。
ただ、卑近なことを言えば、その「的」が見えていないことには、そもそもこの話は始まらない。
「的」を見ようとしなければ始まらない話なのだ。
ただ、この問題を突き詰めていくと、さらに深刻な状況に突き当たる。
それは、私が「よく見れば見えるはずの遠い的」と表現した「的」が、どうやら私が思うほど、「見えて当たり前の世界」ではないようなのだ。
つまり、それが何なのかわかっていないのではないか、ということである。
これは結構衝撃的な発見だった。
「(経営者が)目標がわからない!?!そんな馬鹿な!!」と思うのだが、これが現実である。
昭和の時代は、そんな崇高な目標をもって頑張っている経営者がいくらでもいるように思えていた。
しかし、今振り返ってみれば、それは単に私が「そう思っていた」だけかも知れない、と最近考えるようになった。
つまり、かなり買い被っていたのではないかと・・・
昔は私の周りにも、というか正確に言えば私の父の周り(昭和から平成の初め、父が現役バリバリの頃)にも、頑張ってそれなりの成功を手に入れている経営者は、そこそこいたものである。
まだ若かった私は、当時
「すごい社長さんだなあ。とてもかなわないよなあ。」
と思ったものだ。
しかし、やがて昭和が終わりを迎え平成に入ってしばらく経った頃から、この状況がなんだか怪しくなってきた。
やり手だと思っていた社長さんや会長さんが、さっぱり成果を出せなくなったのだ。
さらに問題なのは後継者の育成もうまくいっていない、ということだった。
つまり、あれほど隆盛を誇っていた「商売」という事業形態が、あらゆる意味で頭打ちになってきたのである。
つまり、あの成功は、それほど「才覚」によるものではなかったことになる。
世の中が、高度経済成長という大きな流れの中にあったので、ただその時流に乗ってうまくいったに過ぎなかった、ということだったのだ。
こんな風に決めつけるのもどうかと思う。
ただ、いくら「才覚」というものが冒頭に書いたように、誰にも射ることのできない的を射るくらい難しいものだとしても、高度経済成長期のように他力で自然とそうなる状況からさらに成長して、自らの力で一歩抜きん出る経営者が少しは出てきてもいいはずである。
しかし、現状はほとんどそうなっていない。
周りの経済的環境が厳しくなった途端、失速する経営者が大半になってしまった。
この状況はあまりにも情けない。
見えない的を探しましょうよ。
つづく