分断というが・・・意見が違って当たり前―世の中はサイレントマジョリティー―

「分断」て?

安倍元首相が凶弾に倒れ、国葬も終わったというのに、相変わらず故首相の功罪を問う声が多い。

そんな中で、リベラル側の主張に「安倍首相のもと日本は分断を図られた」という声が大きい。

この「分断」或いは「対立」といった言葉は、アメリカにおいては、トランプ前大統領の在任中にもしばしば使われた。安倍元首相もトランプ前大統領も、日本、アメリカそれぞれの国で国民の対立構造を作り、国民を「分断」させたというのである。

 

支持されていた

私は、この主張には初めから違和感があった。二人ともスタンスとしては保守派であり、リベラル派とは一線を画していたと思う。しかも、この両者は政治的手腕に優れており、国民の支持は高かった。

特に安倍元首相は、日本における歴代最長首相在任政権を樹立した指導者でもあったのだ。

にもかかわらず、多くのマスメディアやリベラル側の言論人にとって、彼は日本を「分断」に追いやったまるでA級戦犯のような扱いである。

ごり押しのようなやり方、或いは権謀術策を駆使してトップまで登りつめ、同じようなやり方で長く権力の座に居座ったのであれば、「分断を図った」とのそしりを受けても仕方がないかも知れない。

しかし、安倍元首相は、終始国民の高い支持率を受けており、あえて「分断」など図る必要などないリーダーであった。

 

意見が違えば「分断」か?!?

「分断された!」と騒いでいるのは、主導権を奪われて、自分たちの思うようにことが進まなくなった、リベラル側の一方的な言い分である。意図的に「分断」を作り上げているのは彼ら自身なのだ。

この世の中に違う意見の人間が存在するのは、致し方の無い現実である。

むしろ、ぴったり合う人間の方が少ないだろう。またそれが当たり前の姿であり、それでいいと思う。

その違う意見の存在を「分断だ!」と言い始めればきりがない話になる。

世の中、分断だらけということになってしまうではないか。だから、初めからいちいち「分断」などと大げさな言い方はしないのだ。

 

なぜ対立を煽る!?

国葬に際して朝日新聞は「100メートル以上の献花の列・・」と報道したそうである。(私は、新聞も地上波テレビも見ないのでインターネットで知った。)

残念ながら私は参列することはできなかったが、献花に並ぶ人の列は少なく見ても5キロ以上は続いており数万人単位の人数だったようだ。

前代未聞の弔問者の数である。

それを、たった「100メートル以上・・・」と、極端に矮小化して伝える底意地の悪さ心の狭小さにはあきれるほかない。一方で、国葬反対派もいくらか集合していたようだが、こちらはほんの数百人単位と、本当にしょぼい人数だったらしい。ところがこっちについては、そんな実態よりももっと大勢の人間が集合し気勢を上げていた、と報道していたようだ。

国葬に対してどちらの支持者が多かったのかは、この事実からしても一目瞭然である。これだけ圧倒的な支持者数の違いがあっても、上記のように拮抗して対抗していたかのように報道する。

まさに対立を煽り、意図的に「これは分断だ!」と言い募るのである。

どんな理屈をつけてでも、彼らにとって都合のいい仮想現実であるところの「分断」を作り上げたいのであろう。

 

世の中はサイレントマジョリティー

私自身、あきらかにリベラル派(左派)ではないが、かといって自分が保守派とも思っていない。極めて普通、真っ当でまともな考え方をしている、と思っているだけである。(そもそも右派だの左派だのというカテゴリー分けそのものが意味のない話だ。)

世の中には、声だけは大きいひねたリベラルの連中と、まともでもの静かな大半の人たち(サイレントマジョリティー)、それにごく少数の極右の人間がいるだけではないのか。

それを「これは「分断」だあ!」などと言っては身も蓋もない。

おそらくリベラルの連中と話をしても全く合わないとは思うが、だからといって私はその状況を「分断」などという気はさらさらない。

「分断」という用語を叫び散らすことで、まさに「分断」を図る連中の口車に乗ってはいけない、と思う今日この頃である。

 

リベラルじゃないけど保守ってわけでもないぜ。