水汲みは重労働、手の感覚が・・・一輪車はクソの山に登る・・過酷な労働につぶされそうになった青春の日々―Ⅲ
ちょっと東京にいられない事情ができて、北海道へと逃亡した私。
住み込み食事付きで働き始めた酪農家での仕事は、牛の糞の始末作業であった。
ひたすら牛の糞を一輪車に積んで、牛舎の外へと運び出すのである。
今思い出すと、或る意味、この糞の運搬作業よりきつかったのは、水汲み仕事だったかも知れない。
こちらも毎朝毎夕、外にあった水道からバケツで新鮮な水を汲んで、牛の飲料用に牛舎に運ぶのである。
牛1頭に2,3杯は必要なので、重いバケツを両手にぶら下げて何往復もしなければならなかった。
今考えれば、何とも非効率な作業だが、零細な酪農家だったので、いろんな設備に投下する資本がなかったのである。
そうやって、何回も重いバケツを運んでいると、やがて両手の感覚がなくなるくらい筋肉が疲労してくる。
そのためか、朝目が覚めると、両手の指が硬く固まっていて、手のひらがなかなか開かない。
手の指が自由に動くようになるまで結構時間がかかった。
そのほか力仕事としては、ギュッと固めた干し草の四角いかたまりを運ぶということがあった。
これを牛舎に運び、そこでほぐして牛のえさとして与えるのである。
このブロックを10個並べたくらいの大きさの直方体は、重さが4,50キロはあり、つかみにくいこともあって持ち上げるのには苦労した。
それを力に任せて、うんしょと持ち上げると、牧場主が珍しく「おめえ、なかなか力があるな。」とほめてくれた。
北海道の自然環境が厳しいな、と感じたのは寒暖の温度差が激しかったことである。
昼間Tシャツ一枚でも暑いな、と感じる日もあれば、霙(みぞれ)の叩きつける震えあがるような寒い日もあった。
そんな落差の激しい日々が、交互にやってくるという感じだった。
それでも、風邪一つひかず何とか過酷な労働をこなせたのは、異郷の地での緊張感とまだ若かったせいだったのだろう。
それにしても、特に目的があるわけでもなく、単なる逃亡先として北海道を選んだのは正解だったのかなんだったのか?!?
空と大地と雲と・・・
つづく