「見るのが好き」と「着るのが好き」の間には若干の隙間が・・―ファッション雑感シリーズ2「着道楽」?楽しく、面白く生きるのが、私の人生の目標(by石津謙介)―Ⅱ

【着るのが好き?見るのが好き?】2

「着道楽」は、服を着ることが好き、のはずだが「服が好き」といっても「見るのが好き」「買うのが好き」「持つのが好き」「着るのが好き」といった分類ができるのではないだろうか。

野球の野村監督は「持つのが好き」の部類だったのか、遺品を整理していたところ、まだ一度も着てもいないどころか、包装を開けてもいない洋服がいっぱい出てきたらしい。

 

同じような話で、「断捨離」に関するドキュメント番組などを見ていると、山のように増えて収拾がつかなくなった洋服を整理していたら、買ったまま封も切らずにいた服が結構出てきた、という人をときどき目にする。

ということは、これは野村監督に限らず、人によっては起こりうる現象なのだろう。

 

ただ、この現象に関しては、部屋中に服が溢れて収拾がつかなくなっている様子など見ていると、ちょっと異常なものを感じる。

これは、「持つのが好き」「買うのが好き」といった服好きのポジティブなマインドとは少し異なる病的なものなのかも知れないな、とも思う。

 

よく言われるところの「買い物依存症」という言葉が、頭に浮かぶ。

おそらく、なにかしらの欲求不満を埋め合わせるための代替行為か何かなのだろう。

 

さて「持つのが好き」というところで随分時間を喰ってしまった。

心理分析を含めた「服好き」へのアプローチはいったん置いておいて、本筋へ戻ろう。

 

「見るのが好き」と「着るのが好き」の間には若干の隙間があるように思う。

この隙間は小さいようで案外大きいかも知れない。

 

ここで、かなり具体的な話になるが、例えば、雑誌などで一流ブランドのトレンチコートを見たとする。

どっから見ても、とてもカッコいい。

「こいつを羽織ったら俺もカッコよくなれるだろうな。」

と思わせるに十分な見栄えである。

 

しかし、現実にそれを羽織ったからといって、雑誌で見たときほど自分がカッコよくなれるとは限らない。

「見るのが好き」からスタートして「着るのが好き」の段階で得られる、と思っていたプラスイメージの現実と客観的な結果との間には、思惑と違って若干のギャップがあるのだ。

 

「若干」だったらいいが、イメージと大きく乖離していたらこれは悲劇である。

「着るのが好き」はいいけれど、そこのところは現実を十分心得ておく必要があるかも知れない。

大昔のトレンチコート姿。

おお、恥ずかしい!!

 

つづく