選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり―文学全集、一家に一セットあると思っていたあの頃―Ⅻ
家にあった「文学全集」の中から、好きな作家を見つけ出し、その作家の他の様々な作品が文庫本でも読めないものか、と探しまくっていたあの頃。
ところが、当時買い集めた文庫本を改めて眺め直してみると、文学に限らず、いろんなジャンルのものを読みまくっていたことがわかった。
今とは違った意味で、随分と好奇心旺盛な少年時代の自分であったことがこれでわかったのである。
現在は、文学や哲学といったジャンルからすっかり離れてしまい、ビジネス本とかなんだか実利的なものばかり読んでいる。
昔の自分の方が、かなりハイレベルな教養を追及していたことになるのだ。
文学全集から始まって文庫本へと飛んだら、随分話が逸れてしまった。
文学全集の方に話を戻すと、思春期の頃、ヘルマン・ヘッセに衝撃を受けたあと、ドイツ文学でハマったのはトーマス・マンであった。
いつ、初めて読んだのか忘れてしまったが、彼の短編作品である「トニオ・クレーゲル」を読んだときもある種の衝撃を受けた。
ただそれは、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」を読んだときのような、ガァーンとした強い刺激ではなく、もっと静かな、しかしその後の人生に長く影響を与えかねない深い衝撃であったように思う。
「トニオ・クレーゲル」は、芸術の世界へと入ってしまった人間と、市井に普通に生きる人との落差や相克といったものを描いた作品である。
この感覚は、太宰治のいう
「選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり*」
という言葉と相通じるものがあるのかも知れない。
上記のようなテーマについて悩み思索する主人公のトニオ・クレーゲルの姿と彼が生きる北ドイツの重く暗い風景とが相まって、当時の自分の精神世界に深く根差したのを覚えている。
私にとってヨーロッパへの憧れは、何故だかわからないが、ああいった北ドイツの風景やスコットランドやアイルランドの荒涼とした情景に重なるものがある。
イタリアや南フランスなど、地中海に面した国々の明るい太陽の下の世界もいいなあ、と思ったのは、随分あとのことになる。
そういう意味でも、少し変わった少年だったのかも知れない。
*詩人ボードレールの言葉といわれています。
ヘルマンヘッセ著作集。背表紙がボロボロになっています。
つづく