表現という営みが極度に安易に捉えられている?―「言葉」について・・表現力はどうやって磨かれるのか―Ⅲ
言葉というものの本質にこだわる山崎正和氏は、文部科学省による高校国語の新しい選択科目としての「論理国語」の新設に対して、厳しい批判を寄せられている。
それは人間の言葉による「表現」というものを、もっと高度かつ深慮すべきものとして位置付けなければならないという、言葉を生業とする劇作家としての矜持の表れではないだろうか。
それは次のような記述に、かなり強い主張として表れている。
―(文科省の方針は)表現という営みが極度に安易に捉えられ、言葉を知らない乳幼児でもできる、むずかりや甘えと同程度にしか理解されていないと言うべきだろう。
乳幼児のむずかりや甘えは1対1の相手に向かい、肉体能力の届く範囲において直接的に発せられる。
その際、コミュニケーションの責任はもっぱら相手にあって、乳幼児が誤解の責任を取ることはない。
実は言語活動はあらゆる点でこれと正反対の構造を持ち、人に正反対の努力を求めるものなのである。―
山崎氏が、乳幼児のコミュニケーション能力を引き合いに出して、文科省の方針を批判するということは、かなり今回の方針に対し懐疑的になっている証左であろう。
言葉による表現、というものに対して劇作家という立場上、並々ならぬこだわりがあることがこちらにも伝わってくる。
乳幼児の発する、むずかりや甘えといったコミュニケーション手段をどう解釈するかの責任は、大人であるこちら側にあるとする山崎氏の見解はその通りである。
これが当たり前ということは、容易に理解できるが、言語活動はその正反対に所属する営みである、という見解については、普通の大人が日常それほど意識することはないだろう。
しかしながら、実は山崎氏の言われるように、言語表現によるコミュニケーションには、それが通じなかったり誤解を与えたりするようであれば、それは大人として言葉を操るこちら側に責任が生じるのだ。
そこまでの重みを持って、普段言葉を操っているか、と問われれば、私も心もとない、と言わざるを得ない。
なかなかこうは・・・・・
つづく