言葉はただの発信ではなく複数の相手との共同体を作る営み―「言葉」について・・表現力はどうやって磨かれるのか―Ⅳ

言語表現によるコミュニケーションに、言葉を操るこちら側に責任が生じる、という宿命があるとすれば、その責任について、我々は普段からもう少しきちんと意識しておく必要があるのだろう。

そういった言葉の持つ本質について、山崎氏は次のように述べておられる。

 

―言葉は、本質的に1対1の伝達ではなく、当の相手のほかに第三の傍聴者を予定している。

直接に声の届く範囲を超えて、誰が立ち聴いても分かることを理念的な目標としている。(中略)

言葉はただの発信ではなく、話者と複数の相手との共同体を作る営みなのである。―

 

うーーん!これは言葉に対するかなり高度な解釈であり、要求なのかも知れないと思う。

というのは、近年、若者の間で使われている言葉が「第三の傍聴者を予定している」かどうか、ということが疑わしいからである。

 

山崎氏がサンプルとして取り上げられた「カワイイ」とか「ヤバイ」とかは、その使用法、タイミング、それが指している意味などが複雑かつ多様すぎて、第三者である私などには理解できないことが多いからである。

まあ、だからこそ山崎氏のような指摘があえてなされるのかも知れないが・・・・

 

しかしながら、山崎氏の言われる通り、大人が使う言葉の本質というものは、ただの発信にとどまらず、共同体を作るレベルまで意識してもっていかなければならないのかも知れない。

ただ残念ながら、大人である我々も、そこまで言葉を大事にしている、そういったことを大いに意識しながら言葉というものを駆使している、とはいいがたい現状がある。

 

ちなみに、若者がよく使う「カワイイ」とか「ヤバイ」といったたぐいの言葉は、あらかじめ共有する世界観の中だけで通用すればそれでいい、という前提のもとに成立するもののように見える。

そこでは場合によっては、自分たち独自の共同体(主にジェネレーションが共通項)から他者を排除しても構わない、という論理も働いているのではないだろうか。

 

         ジェネレーションを超えて「言葉」は通じるのか?!? 

 

つづく