人間は、まず言葉を与えられ、それによって物事を感じ、考える存在―「言葉」について・・表現力はどうやって磨かれるのか―Ⅱ
文部科学省が高校国語の新しい学習指導要領に選択科目として「論理国語」の新設を図る、という点について警鐘を鳴らされる山崎正和氏。
この件に関する山崎氏の指摘はさらに続く。
―何よりも文科省の言語観の浅薄が感じられるのは、生徒の表現能力を過信し、自由な発表活動を教育の中心に据えようとしていることである。―
と、指摘されているが、私には、自由な発表活動を教育の中心に据えることがなぜ浅薄なのか、いま一つよくわからない。
また、生徒の表現能力を過信するとはどういうことなのか・・
その点について、このあと山崎氏は言葉に関する極めて本質的な見解を述べておられる。
この本質あるから、今回の文科省の方針について厳しい指摘をされるのだろう。
それは次のようなものである。
―人間は自由に感じたり、考えたりしたことを話すのではなく、まず言葉を与えられ、それによって物事を感じ、考える存在であることが、ここではまったく忘れられている。―
新約聖書は「初めに言葉ありき・・・」という書き出しで始まるらしいから、昔から言葉は人間にとって最も大切な特質ということなのだろう。
それにしても、山崎氏のこのくだりは難しい。
言葉というものがなければ、人間は感じたり考えることができない存在なのか・・ということになる。
私自身、言葉というものの本質を深く考察し、こんな風に向き合ったことはない。
これはいったいどういうことなのだろうか?
さて、その言葉を使って人間は様々な表現を可能にするわけであるが、その「表現」について、山崎氏はさらに厳しい指摘をされている。
―(文科省の方針では)表現という営みが極度に安易に捉えられ、言葉を知らない乳幼児でもできる、むずかりや甘えと同程度にしか理解されていないというべきだろう。―
「論理国語」という新しい選択科目の設置について、これほどの厳しい指摘をされるのはどういう理由によるのだろうか。
その詳しい内容がこのあと語られることになる。
ラジオ放送も言葉による表現。
つづく