その辺にいる普通の親父だけど、私が結構幸せなわけ―自分の軌跡を振り返ってみた―(中編)

要求されるのはひたすら勉強すること

私なりのハッピーに辿り着いたその軌跡を追ってみたらいったいどうなるのだろうか?

まず私の場合、これまでの人生、どうも理屈というよりも勘に頼って生きてきたような気がする、ということになる。私の場合、「勘に頼る=好きなことしかしない」という、実にいい加減な図式が成り立つ。

そもそも、人は人生において、その都度やるべきことがある。タイミングに応じて取り組むべきことがあるはずである。真面目な人は、そこにちゃんと向き合うだろう。

私はまだ幼い頃、頭でっかちというか、本などもよく読んでいたし、その理解度も、まあいい方だった。結果として、小学校までは勉強のできる方だった。

ということで、「よし、俺はこっちの世界(知的な)で生きていこう。」と思い、地元にあった進学校を中学受験したのである。そうしたら、幸運にも受かってしまった。

ここで要求されたのは、当然ではあるが、さらに「ひたすら勉強すること。」になる。求められるのは、遊びほうけることでもなければ体育会系的な鍛錬の日々でもない。とにかく勉強することが義務みたいなものだったのである。

 

人生最初の大きな躓き

ところが、ここで人生最初の大きな躓きを味わうことになる。なんと私は、その肝心な勉強が嫌いだったのだ。

それまでは、自分はそっち方面(勉学の世界)が、嫌いではなくむしろ向いている方の人間だと思っていた。ただそれが、半ば強制されるとなると話は違ってくる。やらねばならない環境の中で、どうやら勉強が好きではない、ということがはっきりしてきたのだった。

しかも、ああいう学校では好きな教科とか得意な科目とかに関係なく万遍なく勉強することが求められる。私の場合、好きな教科はともかく、嫌いなそれには全く身が入らなかった。そうなると、ますます勉強が苦手である、ということが強調される。

結果的に、成績面で当然のように取り残されていく。ああいった学校では、その手のはみだし野郎は早々に淘汰されることになる。という経緯で、せっかく入った進学校から追い出されたのであった。(形としては出ていったわけですが)

子供の頃までは、優等生っぽく割と順調に来ていただけに、ここで大きな挫折を味わうことになった。まだ、14,5歳の頃の話だ。当時の気分と言えば、完全に失意のどん底だったのである。

 

何してたんだ?それは「読書」

ただ、この頃、勉強しなかったこととの引き換えに、その後の人生に影響するそれなりの伏線があったことも事実だ。尤もそれが伏線だった、ということに気が付いたのは数十年後の話だが。

それでは、その伏線というのは何だったのか・・・

それは「読書」ということになる。そう。学校を追い出されるくらい勉強しなかったのだから、なにか他にやっていたはずだ、と考えてみた。

私は、いったい何をやっていたのか?あとで思い出してみると、それが「読書」だったのである。

当時、主に文学作品を読みまくっていた。振り返ってみると結構なレベルのものを結構な量読んでいたことになる。

とはいえ、その行為(読書)が、勉強がダメだった分の埋め合わせになる、ということは全くなかった。まあ、当たり前の話だが。

 

俺ってダメすぎる奴だよなあ

どうやら勉強が好きではない、ということがはっきりしてきたものの、それでもそっちの世界を完全に諦めたわけではなかった。進学校は追い出されたとはいえ、大学受験という節目で、かつての同級生と肩を並べて、それまでのマイナスを取り戻してやろう、と目論んでいたのだ。

ただそのためには、やはり受験勉強という奴に取り組まなければならない。それが必須条件である。しかし、どうやら嫌いなものはどうしようもない、というのが私という人間であるらしい。

大学受験も失敗に失敗を繰り返し、浪人生活を重ねた末にようやく私立の文系に滑り込んだのである。こうなると「ホント、俺ってダメすぎる奴だよなあ。」というレッテルを自分で自分に貼らざるを得なかった。

とはいえ、相変わらず読書だけは続けていてので、大学生協の書店で無理して文学全集など購入したりしていた。「読む」という行為だけは、ずっと続けていたことになる。

まあ、本だけはよく読んでいたわけで・・

 

つづく