その辺にいる普通の親父だけど、私が結構幸せなわけ―自分の軌跡を振り返ってみた―(後編)(おしまい)
書いた結果を外の世界に発信
ここでもう一つ大事なことがあった。「読む」と同時に「書く」ということもずっと続けていたような気がする。この時期に書いたものなど、ちゃんと残ってはいないが、なんか日記みたいな形で書き続けていた記憶がある。
ただ、この「書く」という行為が本格的になってきたのは、若い頃から数十年を経て、ワープロというツールとインターネットという媒体に出会ってからということになる。パソコンを使って文章を書き、それをそのまま発信する、という行為がインターネットを通じて同時に可能になったのは大きかった。こんな世界がくるとなどは想定もしていなかった。
この頃から「読む」という行為は、ほぼ文学的な世界からは離れ、その対象がビジネス書か実用書的なものに変わっていった。中にはビジネス思想的な高度なものもあったので、ただただ現実的実務的なだけの世界というわけでもなかったのだが。
文章は化学反応の末生まれる
とにかく、この書いた結果を外の世界に発信できるようになったのは大きかった。発信すれば、必ず第3者の目に留まることになる。これは、自分しか読まない世界とは天と地ほどの差がある。
「書く」という行為は、平たく言えば、まず「ネタ探し」から始まると言っていいだろう。次に、自分の中にある「書くための要素」を探し当て分析し整理する必要がある。
その探し当てたネタが、自分の中にある「書くための要素」=「問題意識」と化学反応を起こすことで文章が生まれる。これは自分の内面を掘り下げる行為でもある。
そこで生みだされる文章は、他者にもそれを理解できるように表現を工夫しなければならない。これは一種のコミュニケーション行為と言えるだろう。「会話」ではない、というだけのことである。
これを私はかなりの分量やり続けた。今も続けている。
書くこと=ハッピー
さてここで、冒頭のテーマに戻りたい。大した成功者ってわけでもないのに、何故私はそこそこハッピーでいられるのか、というテーマである。
勉強嫌いが祟って、大きな挫折を味わった少年時代。かろうじて引き換えに続けていたのは「読書」だったこと。その「読む」という行為が、その後の「書く」という行為にどうやら繋がったらしい、ということ。この二つは誰に強制されるでもなく、自ら取り組んでいたことになる。
さて、ここでいきなりすっ飛んだ結論に至るのだが、二つのうちの一つ。この「書く」という行為がどうやら私がハッピーでいられるための大きな要因の一つである、ということなのだ。
そもそも「書ける」というのは、前述のように「読書」していたことがプラスに影響するらしい。そこは、結果的に良かったんだなあ、と思う。ただそれが「ハッピー」にまで繋がるとは思ってもいなかった。
前向きに考えられるようになった
「書く」ことの効用の一つに、自己肯定感が増す、ということがあるとわかった。とはいえ、ここってどうなんだろう?
人によって異なるのかな?書くことで、ますます落ち込む、という人はいるのだろうか。
私の場合、それまでどちらかと言えば否定的だった自己分析が、書いているうちに「いや、違う見方、違う分析もできるんじゃないか。」と思えるようになったのだ。
しかもそれは、決して手前味噌な話ではなく、「そうか、(否定するばかりでなく)こう考えればいいんだ。」と、前向きに考えられるようになったのである。これは大きいと思う。私の場合はそうなった。前向きな姿勢の獲得。これは予想外の効用だった。
心が寛容になることに繋がる
もちろん今ハッピーでいられるのは、そのせいばかりではない。他にもいろんな要素があるだろう。
ただ、書くことは、自己を客観的に分析できる機会でもある。そうすると、良いことも悪いことも少し余裕を持って見ることができるようになる。余裕を持って物事を観るということは、これまたどういうわけか、心が寛容になることに繋がるのだ。
何故そうなるのか。ここのところの精神的なメカニズムは私にはわからない。わからないが、これは極めてラッキーなことであった。
成功本にあるような「自分は成功した。だから幸せ」というのとは、少し違っているのかも知れない。しかし、私がそこそこハッピーなのはこういうことも一つの要因なのである。
大して参考になるお話ではないかも知れませんが、まあそういうことなので、ちょっとだけでも心にとめておいていただければ幸いです。
朝一でこのまっさらなノートに書き始めるのです。
おしまい

