努力と得られる成果の因果関係がきわめて不明確なセンス―「仕事ができる」とはどういうことか?を読んで―Ⅲ

私が最近読んだ『「仕事ができる」とはどういうことか?』という一冊の本。

著者は、私が当代きってのインテリジェンスの持ち主と評価している、楠木健氏と山口周氏のお二人。

構成としては、全編対談形式によるものです。

 

さて、この本の中で「仕事ができる」条件を説明するために「スキル対センス」という対比を持ち出されています。

これまでのビジネス社会は、とにかくスキルが優先して、センスは劣後におかれていたが、その価値判断は終わったのではないか、というのがお二人の主張されるところのようです。

 

その一つの例として、「モテる」という現象を取り上げておられます。

もちろん話の主旨は「どうやったら女性にモテるか」などという卑近なものではなく、「モテる」という現象が「スキル対センス」という対比を説明するのに、どう作用するか、といった角度で取り上げられているのです。

 

「モテる」に直接行く前に、「スキル対センス」の前哨戦として次のような事例をあげておられます。

楠木氏の発言

―スキルは、正しい方法の選択と努力、時間の継続的投入がカギです。

ここさえ間違えなければ、間違いなく前より「できる」ようになる。

あるところまでは、やればやるほどTOEICの点数は上がるんです。

そうすると、それがますますインセンティブやモチベーションになる。

 

その一方でセンスが厄介なのは、ない人が頑張るとますますヘンなことになってしまうんですね。

要するに努力と得られる成果の因果関係がきわめて不明確なんです。

洋服のセンスのない人が30万円握りしめておしゃれなセレクトショップに行くと、だいたいひどいことになって出てくる。―

 

いやはや何ともひどい言い草ですが、おそらくその通りだろうと思います。

 

私の顧客に、セレクトショップのオーナーがいますが、こういうお客さんが来店した場合、その「ひどいこと」にならないようにアドバイスすると言っていました。

まあとはいえ、そんなサポートがない状態で自分で選ばせれば、きっと上記のようなことになるのでしょう。

 

ファッションと「モテる」の関係には強いものがあります。

おそらく、(センスがないにもかかわらず)モテたくて着るものに関して頑張ちゃう、という行為は、特に男性側に昔から古典的にあるものだろうと思います。

 

しかし、そこでセンスがなければ、上記のような悲劇というか喜劇のようなことが起こることになります。

この「努力」がそのまま報われない、という現象には日本人は極めて弱いのではないのでしょうか。

 

           書斎の本棚。ひたすらスキルを磨いてきたのか?!?

つづく