基準は親しくさせていただいていた度合い―お葬式の花輪について考えてみた―Ⅱ

お葬式における花輪の位置取りにも、それなりの序列があることを知らされた父の葬儀。

男性中心のビジネス社会においては、どんな場面でもマウンティングが存在することに配慮する必要があるのだ。

 

振り返ってみると、いつも祭壇の一番近くに陣取っている花輪というのはあるもんだ、と思いが至る。

地元でちょっとしたポジションの方が亡くなったときは、いの一番に花輪を届けることにしている人、というのがいるのだろう。

 

そういえば先日、母から電話があった。

「どこどこの誰々が亡くなったそうだけど、ご葬儀には行ったのかい?」

 

田舎は、高齢化社会である。

結婚披露宴などのお祝い事は、めっきり減ってしまったが、ご葬儀だけは年に何回も参列する機会が多いことになる。

 

とはいえ、お祝い事とは違い、ご葬儀は突然のことがほとんどである。

場合によっては参列できないこともあるのだ。

 

母が電話をかけてきた葬儀については、私はたまたま忙しくて参列できなかったが、担当していが部下を行かせた。

母にはその電話で

「花輪も届けておけば、葬儀にいった人の目につくから、そうすればよかったのに。」

と言われた。

 

そのご葬儀に、私は花輪は届けなかったが、亡くなった方との距離感によっては届けることもある。

私の場合、その基準はあくまでも親しくさせていただいていた度合いによるのだ。

 

母からの電話を受けながら考えた。

花輪がいつも祭壇近くにある、というのは、こちらの存在をアピールするという意味においては、そこそこ宣伝になるのかも知れないが、上記の人のように、それが毎度のことだと

『ああ、またこれ見よがしに花輪を出しているよ。』

とも思われかねないかも、と。

 

私は、前述のように親しくさせていただいていた度合いによって、それなりの弔意を示したいと思っている。

花輪に、マウンティングのマインドを持ち込みたくはないな、と思う。

 

それよりも、といってはなんだが、お香典はそれなりの金額を包んでいるつもりである。

田舎は、お香典の金額が私の常識よりはかなり低い。

 

亡くなった方の生前の社会的ポジションを考えたとき、「その金額はないだろう!」といった安い相場がまかり通っているような気がする。

私は花輪でアピールするよりは、その分をお香典で示しているつもりだ。

 

まあその辺の考え方は、人それぞれだろうから、あまり他人のことをとやかく言うつもりはない。

ただ、花輪でマウンティング、という図式からは逃れたいものだと思っているのである。

 

               ご葬儀のあともらって帰ったお花。

おしまい