マウントは常について回る―お葬式の花輪について考えてみた―Ⅰ
5年ほど前に亡くなった父の葬儀の際に、ちょっとしたトラブルが持ち上がったことがあった。
亡くなる前の数年間、父は私に経営を任せ、現役から退いてセミリタイアに近い生活をおくっていた。
とはいえ、最後まで税理士資格は返上せず、50年以上のキャリアもあったので、いわば地元の名士的はポジションであった。
そういう事情もあってか、父の葬儀はその葬祭場始まって以来、と言っていいくらい盛大なものになった。
訪れた弔問客の人数や届けられた花輪は膨大な数に及んだ。
特に花輪は会場に飾りきれず、斎場の外にまでずらりと並ぶ格好になったのである。
とにかく、次から次へと届けられるので、順番などに細かい気を配っている余裕がなく、どんどん並べていった。
さて、前述の、ちょっとしたトラブル、というのは、その花輪に関してであった。
生前、父と親しくしていただいていたある会長さんの花輪の位置が、祭壇からやや遠いポジションで、「これはちょっとまずいのではないか。」ということだったのである。
先述のように、次から次へと届けられる花輪の数が多すぎて、並び順にまで、細かい配慮が行き届かなかったのだった。
クレーム自体は、その会長さんから直接きたというよりも、秘書の方が事前に気がついて、もっと上座の位置に入れ替えた方がいいのではないか、と指摘されたのであった。
その会長さんは生前父が親しくしていただいた方で、確かに社会的なポジションもそれなりの方だったので、そんなクレームがきたからといって別に嫌な感じはしなかった。
とにかく、あわてて花輪の位置を入れ替えたことを覚えている。
ただ、このとき感じたのは、
「ああ、花輪の位置一つとっても、社会的ポジションの序列というのは大変なものなのだな。」
ということである。
ちょっとしたことでも、マウントというのは常について回るものなのである。
わたしなど、自分に関しては、そんなことはあまり気にも留めない方なので、ついスルーしてしまうことが多いのかも知れない。
しかし、他者に対しては、そこのところはかなり気を付けていないと、思いもよらぬ不快感を与えている場合もあるのだ。
これは亡くなった際、父のデスク飾られたお花。
つづく