この構造、小学校の頃とさほど変わっていない―自分という人間とそのポジションを考えてみる―Ⅱ
小学生の頃、年上の連中から目をつけられ、ぶん殴られたこともあった私。
それが中学では益々エスカレートしつつあったのだが、町から離れた私立中学校に進学することで、何とかその難を逃れることができた。
多少生意気な子供だったとはいえ、なんでそこまで目をつけられ、嫌われていたのかはわからない。
さて、あれから60年近く経った。
20年ちょっと前に同じ田舎の町に帰り、今私はそこで仕事(ビジネス)をしている。
小学校の頃みたいに目立つ存在なのかどうかはわからないが、とにかく地域で一定のポジションを得ていることは確かである。
税理士という仕事の関係上、多くのお客さんの支持を得られなければ成り立たない。
幸いにして、ある程度の支持は得ているのだろうと思う。
私の事務所は、微増ながら毎年成長発展しているからである。
しかし、ここで私は、ふと先述の小学生の頃のことを思い出したときに、やはり、一定私を嫌っている人、敬遠している人の存在があることに気がつく。
今さらながらではあるが、この構造は小学校の頃とさほど変わっていないのではないか、ということに気がついたのだ。
誰からも好かれる、ということがいかに難しいか、ということはよくわかっている。
というより、そんなことはあり得ないのだから、ことさら目指す必要もない、ということはわかっている。
どんなに馬が合って「こいつはホントにいい奴だよなー。」と、私が思っている友人なりがいたとしても、そいつのことを嫌っている人間は一定程度いるものなのだ。
ましてや私など、嫌う人間がいるのは当たり前、と思った方がいいのだろう。
そんなことを考えながら、ふと本棚を見ると、「嫌われる勇気」というタイトルの本が目に入った。
だいぶ前に買ったものの、まだ読んでいないことに気がついた。
こんなタイトルの本が出版されているということは、私と同じようなことを考えている人が多い、ということなのではないだろうか。
私の場合、誰からも嫌われたくない、と思っているわけではないが、こっちがそれほど思ってもいないのに、向こうからはひどく嫌われる、という状況がなんだか納得がいかないだけの話なのだ。
だから私もたぶん「嫌われる勇気」のない人間なのだろうと思う。
高い建物などない田舎です。
つづく