誰も読まなかった―文学全集、一家に一セットあると思っていたあの頃―Ⅰ

私が子供の頃、家には「文学全集」というのがあった。
今考えれば少し不思議な気がする。


うちの場合、そんなもの父も母も読みはしないからだ。

母は少しくらい読んだかも知れないが、父がページをめくったとはとても思えない。

私には弟と妹がいるが、あいつらもあれを読んだはずがない。


ということは、唯一、私だけが接点を持ったことになるのだ。

かといって、子どもの私が、何十巻もある全集などねだるわけもなく、いつの間にか、目の前にあった、という感じである。


「文学全集」には3パターンあった。

「少年少女文学全集」「日本文学全集」「世界文学全集」の3つである。

ついでに言えば、百科事典というのもあった。

「エンサイクロペディアアメリカーナ」といって、確か三十何巻あったはずだ。


いずれも、実家が一度火事になったために散逸してしまった。

火事から数年たった頃、焼け出された荷物が放り込んであった父の家のガレージから「日本文学全集」と「世界文学全集」の中の水に濡れてしまったものや焦げてしまったものを除いて拾い上げ、一部が今私の書斎の本棚に並んでいる。


3つの「文学全集」のうち、何といっても最初にお世話になったのは「少年少女文学全集」である。

これを読むことで、まずはいろんな世界を知った。


「三国志」「水滸伝」「西遊記」などの中国文学、「ギリシア神話」「ローマ神話」「聖書物語」といった西洋の神話もの、「ガリバー旅行記」「ドリトル先生」「ロビンソンクルーソー」などの冒険もの、「ロビンフッド」「アーサー王物語」などの英雄もの、「エミールと探偵たち」「ネズナイカ」といった子供が主人公のもの等々、やはり全部で数十巻あったので読みごたえはあった。


一番お世話になったはずの「少年少女文学全集」は、焼け残りの荷物の中にもなかった。

おそらく、家事のあとの後片付けの際に捨ててしまったのだろう。


今思い出せば、紙質も悪かっただろうし、挿絵などもカラーではなかったのではないだろうか。

しかし、その中には無限の世界が広がっていた。

その想像の世界にいくらでも遊ぶことができたのである。

        焼け残りの中から拾い上げてきた「世界文学全集」の一部

つづく

 

今日の川柳コーナー

◆その昔 文学少年 だった俺

今では実務書しかすっかり読まなくなったなあ・・・・