選択科目「論理国語」の新設―「言葉」について・・表現力はどうやって磨かれるのか―Ⅰ
先日の読売新聞に興味深い提言が成されていた。
提言者は劇作家の山崎正和氏で、国語教育に関するものである。
私はこうやって自身の事務所のHPを通じてブログを書いたり、ほかのサイトではコラムを掲載したりして、言葉による「情報発信(アウトプット)」をかなり長い間継続してきている。
したがって、「言葉」というものに対する思い入れは、人一倍強い方かも知れない、と思っているのだ。
山崎氏の提言のタイトルは「言語力あっての表現力」というもので、文部科学省の〈「論理国語」新設〉に対する見解を述べておられた。
それは次のような内容である。
―(文部科学省は)主体的な表現能力の育成を図るとして、2022年度から高校国語の新しい学習指導要領を実施する。
その目玉が選択科目「論理国語」の新設で、従来の名文読解の指導、教師が読み方を教え込む教育から、生徒へ考えさせる教育への転換だと言われる。―
私は最初
「「論理国語」・・なるほどねえー。いいことなんじゃないの。」
と、単純に思ったのであるが、どうも事はそう簡単ではないらしい。
というのは、上記に続いて以下のようなことが書かれていたからである。
―これには文学関係者の危惧が強く、特に近代文学の名作の軽視につながるという批判が、文学を研究する16の学会から出された。―
私は
「へぇー、これが、どう『近代文学の名作の軽視につながる』んだろう?」
と少し不思議に思った。
その点について、山崎氏はこのあと持論を展開されるのである。
まあそれから、本筋からは少しずれるが、文学研究の学会が16もあるというのも驚きである。
「論理国語」・・・確かに変な言葉ではある。
なんかダサい、といえばダサいような気もするし、そもそも「国語」という、叙事的でもあれば抒情的でもあるべき言葉の本質に反しているようにも思えるのだ。
その点を山崎氏は、「危うい」として、次のように述べておられた。
―危うさは、すでに「論理国語」という用語法自体に表れている。(中略)
大衆的な流行語は「カワイイ」とか「ヤバイ」とか、情緒的な述懐の氾濫を見せている折から、「論理国語」がその撲滅を意図しているなら理解できるが、そういった気配も感じられない。―
こういった原稿も、もちろん自分で書いています。
つづく