「読書」は私に何をもたらしたか―マイナスに始まるプラスとマイナス、トータルはプラスか?―Ⅲ(おしまい)

個人全集を通じてドストエフスキーのほぼすべての作品を読んだように、太宰治も筑摩書房刊の彼の全集を購入して読んだ。

「人間失格」や「斜陽」といった作品には、深く引き込まれるような魅力があった。

無頼とか放蕩とかいう言葉が似合う作家であり、そんな作品が多かった。

 

私は、好きな作家はその作品を徹底的に読んでみたくなるために、何人かの文学者については個人全集を購入して読み込んだのである。

書斎の本棚を見てみると、その作家たちの「全集」が並んでいる。

 

日本の作家では夏目漱石全集、芥川龍之介全集、太宰治全集を買いそろえた。

宮沢賢治全集も買ったような気がしていたが見当たらない。

たぶん、途中でお金が続かなくなって挫折したのだろう。

 

海外の作家のものでは、ドストエフスキー全集、トーマス・マン全集、ヘルマン・ヘッセ選集、といったところが並んでいる。

全集は発行されていないが好きになった作家のものは、文庫本などを探して集められるだけ集めて読んだのである。

気に入った作家については凝り性だったように思う。

 

そうやって買いそろえた作家の作品は、一応すべて読んだ。

つまり、当時純文学については、貪欲に読書していたことになる。

たぶん、作家によっては、当時の年齢ではよくわからない世界観なども随分あったはずだが、まだ若かったので、力わざで読みこなしていたのだろうと思う。

 

さて、そんな私も純文学など、全く読まなくなって久しい。

かといって、文学の持つ香りというか、その独特の触感について忘れたわけではない。

むしろこれからの私の人生にとって、より大事なポジションを作っていくかも知れないと思っている。

 

実生活では、いまだに忙しさに追われる日々であるが、なんとか時間を捻出してもっと文学に触れようと思う。

このまま終わったのでは、あの頃、懸命に文学に向き合った日々が生きてこない。

 

 

おしまい