日本から失われつつあるしかるべき検証能力―「無謬性」という神話を打ち破るには―Ⅲ

「首取り」といった手法しか使おうとしない野党に対して、室伏氏は、次のように断じておられます。

 

―本来であれば、野党にとっては、政策の誤りを正し、修正なり廃止なりさせることが国会での質疑の目的であり成果であるはずです。

(財務省の政策に誤りがあった場合)これまでの緊縮路線の誤りを認めさせて積極財政に転じさせる、必要な分の国債をもっと発行できるようにする、消費税増税を止めさせる、税率を引き下げさせる、そうしたことが成果であり、麻生財務大臣なり関係閣僚を辞任に追い込むことが成果などではありません。―

 

室伏氏は、現在の財務省が打ち出している政策を誤りとした立場で論を展開しておられる(私も一部賛成の立場であります)ので、ここに関しては賛否両論あるでしょう。

しかし、野党がやるべきことは、大臣の首取りではない、という理屈は全くその通りです。

 

今の野党を見ていると、政策論議など夢のまた夢、全然期待できない、と思ってしまいます。

民主党の崩壊以来、野党がほとんど機能しなくなったのは日本国民にとって残念なことです。

 

閣僚のちょっとした失言やミスがあるたびに「辞任、辞任!」としか言わない野党に対して、「そこはもういいよ。ちゃんと政治を執行してよ。」と思っている日本国民は多いと思います。

また、その失言の場面だけ切り取って、繰り返し報道するメディアの姿勢にも、国民はうんざりしているのではないでしょうか。

 

野党とマスコミの劣化ぶりは、日本からしかるべき検証能力が失われつつあることを如実に示しています。

この点を憂え、日本の将来に対して悲観的になっているのは私だけではないでしょう。

 

 

つづく