曖昧だけれど強烈な期待―義理人情をビジネスに結び付けてきたことのおかしさについて考える―Ⅰ

日本では、中でも地方においては、これまで「地縁血縁関係」を、ビジネスを遂行する上での、最も重要な上位モデルとしてきました。

それはいったいどういうことでしょうか。

 

地縁血縁社会は、義理人情といった言葉の概念に強く支配されます。

地域の人たちは、義理や人情に篤いのだから自分を大切に思ってくれて当たり前だ、という前提のもとに人間関係が構築されるのです。

 

これはおそらく、農耕民族の村社会の中で、隣近所お互い助け合って生きていかなければならなかった時代の知恵と言ってもいいでしょう。

それが特に地方では色濃く残っているのです。

 

こういった社会的ベースが、戦後急速に経済が発展し人口がどんどん増加していった時代にも援用されました。

近年と違って、地方にも人口は充分に存在し、人々の購買意欲も強かったので、地縁血縁社会では、義理人情を人間関係の基盤にした前提のもとに、商売も大いに活況を呈したのです。

 

つまり、

「そもそも昔から知らない中じゃないのだから、俺のところを買ってくれてもいいはずだ。」

「長い付き合いだし、自分にはまけてくれるはずだ。」

「以前世話になったのだから便宜を図ってくれるはずだ。」

・・・といった、いわば曖昧な期待のもとに、お互いのビジネスをやり取りしていたことになります。

 

ただ「曖昧」といっても、この期待は結構強烈で、こういったいわば無言の申し合わせを破れば相応のしっぺ返しは必ずあったのです。

つまり、そこでは「あいつは義理人情に薄い奴だ。」というレッテルを張られて、地縁血縁社会から疎外されるといったペナルティーを受けることになるのです。

 

 

 

 

つづく