変革へのプロセスをアメリカと日本の国民性の違いをヒントに考えるⅢ
ケント・ギルバート氏の言う「だから不都合は、取り返しがつかない規模にまで膨らむ。」という指摘は、随所で当たりつつあるような気がする。
どこまで行くのか考えただけで恐ろしい、という現象はいろいろと思いつく。
例えば国家予算である。
この限られたお金をどこに突っ込むのか、ということである。
ごくごく単純に分けて考えてみる。
老人の福祉により多く回すのか、若者の育成により多く回すのか、という課題である。
おそらく、福祉の方を削る、或いは少し我慢してもらうという政策を打ち出せば、国をひっくり返したような大騒ぎになるだろう。
こういうテーマに高齢者は極めて敏感である。
そのことを口に出す政治家もまた少ない。
選挙結果にもろに反映するからである。
責任のない野党の格好の攻撃材料にもなる。
一方、教育予算にはそれほど回せないよ、という政策を打ち出しても、誰も大騒ぎしたりはしない。
直接影響を受ける子供には投票権はなく、その親による間接的な批判でしか抵抗できないからである。
こういうことが繰り返されて、日本は福祉大国になって行ったのだろうと思う。
高齢となった自分の親を見ていても
「今の福祉は随分手厚いんだな。」
と思わされる場面が多い。
つづく