文豪を気取ってみたい、憧れのスタイル―万年筆との共存生活(その1)―(前編)
趣味とファッションの相関関係
男なら誰しも「憧れのスタイル」というものがあるんじゃないか、と思う。例えばバイク乗りだったら、カシッとした革ジャンにゴーグルをつけ、皮手袋にごついブーツなんてどうなんだろう?(違いますかね?)
ゴルフウェアに凝る人もいるかも知れない。釣りをする人はどうなのか?特に格好にはこだわったりしないのだろうか?スキーウェアやスノボウェアなんてのも好きな人は凝っちゃったりしそうである。
車はどうだろう?スタイリッシュなスポーツカーなどのオーナーは、運転するときのファッションにも多少のこだわりがあるのでは、と思ったりする。
と、ここまでは趣味とそれに向き合うときの装いという観点で書いてきたが、道具にもその装いを規定する影響力があるのではないか、と考えた。
例えば、時計が好きな人は、そのときどきのシーンやファッションに合わせて、その日つける時計を選んだりするのではないだろうか。
道具が規定する憧れのシーン
前置きが長くなってしまった。上記のうち、その道具が規定する一つのシーンの中に、私が軽く憧れている自分の姿があるのだ。
それは筆記具を片手に原稿を執筆する姿である。
「何言ってんだよ、お前!」と非難されかねないくらい、どーでもいい話かも知れないが、まあ、聴いていただきたい。
この場合、シーンの方はともかく、大事なのはその手にしている筆記具である。
私の想定では、それは何が何でも万年筆でなければならないのだ。
夏目漱石を始め、文豪の執筆中の写真を見ると太い万年筆を持っているシーンが多い。昔から「作家というのは、あんな太い万年筆で原稿を書くんだ。」と思っていた。
そしていつかしら、自分もあんな万年筆を持ちたいな、と思うようになっていたのである。とはいえ、これまでの人生を通じて、実際に万年筆を使った期間はごく短いものだった。
万年筆は絶滅危惧種?
もう60年近く昔の話になるが、私立の中学に受かったとき、親に買ってもらったのは時計と万年筆だったような記憶がある。はっきりとは思い出せないが、その頃は中学生くらいの子供でもボールペンではなく、万年筆を使っていたのだろう。
その後、世の中はほとんどの場面でボールペンを使うようになった。特にカーボンによる複写式の書類などは、万年筆には向いていなかったので、そのうちまるで出番がなくなってしまったのだ。
そして、さらにそれを通り越して現在は、今こうやって書いているようにワープロが普及してすっかり定着してしまった。今頃、万年筆で文字を書く人など極めて少数派だろう。
朝一で文章を書くという習慣
ところがである。これは全くもって私の個人的な話になるのだが、実は2,3年前から、万年筆を使って文章を書くようになったのである。今書いているこのブログみたいに、他人(ひと)に読んでもらうものではなく、誰にも見せない文章の執筆を習慣にしたのだ。
日記ではない。というか、日記ですらない、といった方が正確だろう。毎朝、ただひたすら文章を書いていくのである。はなっから構成も内容も吟味など全くしないし考えもしない、ただ紙の上にペン先を滑らせるだけなのだ。
この「朝一で文章を書くという習慣、やってみるといいですよ。」という推薦本を読んだので、試してみたら興味深く「こりゃあ、俺に向いているかも。」と、続けているのだ。で、そのとき使用する筆記用具が、久しぶりに手にした万年筆だったのである。
久しぶりに出番が回ってきた
そんな文章を書き込むノートについては、紙面が比較的上質のものを購入した。その際に、やや筆圧を必要とするボールペンよりも、スラスラと紙の上を滑らせるように書ける万年筆の方が楽なのである。インクが紙に微かに染みていく感覚がなんともいえないのだ。
というわけで、昔持っていた万年筆が再び登場する運びとなった。
机の上のペン立てに目をやると、多くのボールペンに交じって、万年筆が隅っこにポツンと追いやられていた。
私はそれを取り出し、長年の埃をふき取り、改めてインクを注入する。机の引き出しを探してみるとさらに何本かの万年筆が見つかった。それぞれにインクを注入したりカートリッジを取り替えたりして準備を整えた。

これは手作りの珍しい逸品
つづく