怒らない怒らない、つまらんことで―穏やかに生きたいだけですから―
以前、「気が短くなったのか?!」といったタイトルでこのブログを書いたことがあった。
老人医療に詳しい和田秀樹先生がお書きになった本によれば、年を取ると脳の前頭葉という部分が委縮して感情のコントロールが効きにくくなるらしく、それが老人が怒りやすい原因になっているとのことだった。
それを読んだとき「俺はどうだろう?」と振り返ってみたが、特にそういう傾向は見られないんじゃないか、とまあ自分勝手に甘い採点をしたのだった。
そのブログを書いてから、それほど経ってもいない先日のことである。次のようなことがあった。
昼飯を食べようと、常連というほどではないが、以前から見知っている喫茶店に立ち寄った。少し辺鄙な場所にあるせいか、日曜日の昼にもかかわらず店はガラガラだった。一組だけボックス席で談笑している。
中に入ると、年配のご主人がカウンターの中にいた。一人であることを告げると、カウンターに座るように促される。
しかしこの日は、スマホを使ってちょっとややこしいやり取りをしなければならなかったので、ボックス席でもいいか?と尋ねた。
すると、その年配のご主人は
「今日は日曜で混みあうかもしれないから、カウンターにしてくれ。」
と私の希望を聞き入れてくれなかった。
そこには、申し訳ないけれどそうしてください、とか、すみませんが、といった雰囲気は微塵も感じられない。
「俺が俺のこの店でそう言うんだからその通りにしろ。」
といった気配に満ち満ちている。
その瞬間、こっちも相当ムッとしたが、その言葉に従ってカウンターの椅子に座る。
そして、少し大袈裟なくらいの動作で背を後ろに向けて広い店内を見渡す。
心の中で
『おい、あんたの店は日曜だかなんだか知らないけれど、どう見たってガラガラじゃないかよ。』
という意思表示を示したつもりだが、爺さんマスターは意にも介さない様子だった。
仕方がないので、スマホでの用事をその席で済ませる。何を食べるかちょっと迷ったが、とにかく食ったらとっととこの店を出たいと思い、サンドイッチを頼んで、さっさと食い終わることにした。
この間にも、なんだか腹の虫が収まらない。私がいる間、二組の客があったが、最初にいた客が途中で帰ったので、店は相変わらずガラガラだった。なおのこと、私の気分の悪さはなかなか収まらなかったのである。
もとからちょっとだけ知っている店だったので、
『たまたま今日はこうやって立ち寄ったけれど、もう二度と来るもんか!』
と、腹の中で自分に言い聞かせる。
あの爺さんの態度に、いかにも昭和を感じる。
まだ、商売が全盛だった頃、客よりも店の方が完全に立場が上、という時代があった。売ってやる、食わしてやる、サービスしてやるという態度で鼻もちならない頃があったのだ。こんなこと言っても、今の若い人にはピンとこないことだろう。
私もいい年だが、あの爺さんマスターは明らかに私より年配だった。
『まあ、仕方がない。まだこんな人種も残っているってことか。』
と、気分の悪いままに店をあとにする。
ここはおそらく賛否両論、別れるところだろう。「そんなこと気にしなきゃいいじゃない。」という意見もあれば「仕方がないんじゃない。それが店の方針だったら。」という意見もあると思う。
私も、「店はガラガラだったにもかかわらず、客の望む席に案内しなかったのは実にけしからん。サービス精神がなっていない!」と、声高に自己主張をし、共感を得たいわけではない。はっきり言って、大した話でもないことはよくわかっている。
さて、本日の問題はここからなのだ。
というのは、どうにもこうにも、この腹の虫がおさまらない時間が長すぎる、と思ったのである。
そう。大したことじゃないんだから、とっとと頭の中から追い出せばいいじゃないか、と自分に言い聞かせるのだが、なかなか怒りの気持ちが静まらない自分にちょっと愕然としたのだ。
『ひょっとしてこれって、例の老人性の短気症状??』
というのが、気になってきたのである。
こういうときって、頭の中でさっきのいきさつを何回も反芻している自分がいる。
考えれば考えるほどムカついてしょうがない、ということはわかっているのに、ふと気がつくとまた思い出しているのだ。『ああいかん、いかん。』と自分に言い聞かせて、できるだけ早く忘れるように心がけようとするのだが、どうにもこうにも腹が立ってきて収まらないのである。
これって、ロジカルに自分を正当化するって話でもないのだから、「ああいう場合、相手はこうすべきである、ああすべきである。実にけしからん。」と理屈を立ててみたところで仕方がないことはわかっている。別に、このいきさつについて「どうかみんな、俺の味方になってくれ。」って話でもないのだ。
冒頭の和田先生の見立てでは、「前頭葉が委縮して感情のコントロールが効かなくなる症状ですな。」ということになるのだろうか。しかし、そうして冷静に自分のことを分析していたら、ちょっと時間はかかったけれど、だんだん、心も静まってきた。
正直言って、こういうときの高ぶった精神の収め方というのはまだよくわからない。たぶん、何かしら心理学的方法論として、心の持って行き方、テクニックといったこともあるんじゃないかと思う。
そう言えば、この一件は「書かなきゃ。」と、すぐに思った。
そうして、今こうやって書いている。
書くことも、心を冷静に戻す一つの方法かも知れない。
できるだけ、ムカつくような場面には遭遇しないように、穏やかに穏やかに生きたいとは思っているのだけれど、時折、今回のような災難は降りかかってくる。
そんなとき、大きく乱れた精神状態をうまく収める良い方法があるのならば、是非学習したいものである。
