元旦の朝、特に何もなし
明けましておめでとうございます。
2025年の年が明けた。
上京したときのいつものパターンで、5時45分の目覚ましで起き出して、身支度をしエアコンの室温を2度上げて、そっと玄関を出る。カミさんはまだ眠っている。カミさんが起き出した時のためにエアコンの温度を2度上げておくのだ。
7階から世界一ノロいマンションのエレベーターに乗り込み1階を目指して降りる。エレベーターのドアが閉まったら、ダウンウエアの前を閉じ、ニットの手袋を手にはめて、リュックをよいしょっと背中に負いカチッと固定用ベルトを止める。こんな一連の動作が終わる頃、やっとこのノロマのエレベーターは1階に到着するのだ。
外に出て歩き始める。目指すは有栖川記念公園でのラジオ体操である。外はまだ真っ暗、気温は一日で一番低い時間帯である。ダウンウエアを羽織った上半身はそうでもないけれど、ズボン一枚の下半身は冷たい。
急ぎ足で急坂を登り、高台にある有栖川記念公園を目指す。元旦の朝、到着してもまだ暗い。東の空が微かに光を帯びている。
この時間、普通だったらいくらかの人の姿があるはずなのに今朝は全く人影がない。元旦の朝、ラジオ体操に来る酔狂な人間は俺くらいなのか、と軽く柔軟体操などやっていると、6時半のラジオ体操始まりの時間にギリギリ合わせるように人々の姿が現れ始めた。
軽く挨拶など交わすが、俺以外の知り合い同士のご婦人方は、今朝は正月のせいか話が弾んでいる。そうこうしていたら、ラジオ体操第一が始まった。
第2まで終わらせて、再びリュックを背負い、早朝から開いているカフェを目指す。有栖川記念公園の広尾側出口はす向かいの角に、昔からあるカフェが朝7時からオープンしているのだ。
一人、カフェでのお正月。私個人の正月風景も、昔からすると随分様変わりしたなあ。
祖母が元気だった頃は、正月は必ず一族郎党ほぼ全員集合した。かなり昔は、叔父の家に集まることが多かったが、大変な負担なので、途中から宴会のできる飲食店に代わった。正月一日、そこの大広間に30人近い一族が集合して正月の挨拶を交わすのである。
一年にいっぺん、大人は近況などを報告し合うのだが、子供たちにとってはそんなことどうでもいい。お年玉のやりとり合戦が始まるのである。
私も、成人近くなってからも、学生のうちは叔父たちからもらっていた。祖母は、孫たち以下には全員、成人していようが社会人になっていようが、ひ孫たちの親になっていようが、最晩年までお年玉を配っていたのである。
つまりこれが、祖母の存在感を具体的に示す、一年に一回の儀式であった。尤も、祖母はそんなことしなくてもその存在感には絶対的なものがあったのだが。
孫以下ひ孫まで全員祖母の前に並んで、一人きっちり一万円ずつもらうのである。一番年上の私とカミさんは、列の最後尾に並び、私が最後の一袋を受け取っていた。そのときの祖母の姿はまさにゴッドマザーであったのだ。
その儀式が終わると、大人たちはまた飲食に戻り、子供たちは畳敷きの広間を走り回る、という風景が正月の恒例行事だった。常に一族の中心には、祖母の存在があったのである。
その祖母が亡くなって10年ほどが過ぎ、もうあんな正月風景は無くなった。それぞれがそれぞれの家庭で正月を迎えていることだろう。
私に至っては、元旦の朝、一人カフェラテを飲みながら、こんなことを書いている。こうなったらもう個人個人のお正月である。
お祝いっぽい気分などまるでないな。しかしさすがにあとでカミさんと一緒に近所の神社にでも初詣に行こう。
2025年、最初の朝飯(^^♪