文学と哲学に関する極めて私的なそれほど深くもない一考察(後編)
わりと小さい頃から、実家にあった日本や世界の文学全集の作品を読みふけっていた私。
そんな風に本が好きだったというだけで、自然な流れで純文学に触れてきた私であったが、以前から一つだけ気になるテーマがあった。
それは、先述のように文学が人間の本質をえぐり出し、そこに注視することによって、目指すべきより良い生き方や人生のあるべき姿を追求することがその目的の一つにあるとすれば、それは「哲学」とどう違うのだろうということである。
「哲学」の意味については、
― 人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする学問。また、経験からつくりあげた人生観。―
とある。
後段の「また・・・人生観」という意味の説明は、その人の主義主張、思想信条みたいなことを指すと思うので、今回の主旨とは少し違ったものになる。
問題は前段の「・・・を理性によって・・」というところである。
人生の根源を求めるという意味においては文学と共通すると思うのだが、その方法論が違うということなのか。
一方、文学がどう定義づけられているかといえば
― 言語によって表現される芸術作品。文芸。―
とある。
なんだか短すぎて味気ない表現である。
文学の肝心なところは、なんといってもこの芸術性にあるのだろうと思う。哲学を芸術とは呼ばない。
哲学の最も肝心かつ中心にあるものは理性であり、論理性ということになるのだろう。
それに比べて文学は芸術作品であるだけに、感情や感性といったものが優先されるのではないだろうか。
哲学は、子供の頃から文学に親しんできたのとは異なり、大学の教養課程のとき1年間履修した経験があるだけで、哲学書を読んだり、何か特別に勉強したことはない。
だから、きちんと比較することなどできないのだが、文学に親しむほどに何か気になっていたのだ。
ふと考えたのは、人生の本質を解き明かすのに、哲学が論理で構成された鋭利なメスのようなものだとすれば、文学はメスのような切れ味はないけれど、三徳包丁のようにいろいろな使い道、つまりより広い間口からそれに迫るものではないか、という比較である。(あんまりいい比喩でもないか・・)
まあ今後も、文学に親しむことはあっても、哲学を研究するということはないだろう。
こんな風に、文学を哲学と並べて考えるようになったのは、文学に関して大衆小説や流行小説の類からではなく、いきなり純文学のしかも上記のようなかなり高度で難解な作家たちから入ったためであろうか。
私がまだ少年時代だった頃にも、石坂洋二郎とか富島健夫とかいわゆる青春恋愛小説みたいなジャンルの作家はいるにはいたが、私はそっち系を読むことはなかった。
おそらくあの頃は、せっかく気合を入れて文学に接するのだったら本物じゃなくちゃあ、という気分だったのかも知れない。
勉強にはちっとも身が入らないくせに、そんなところでは妙に硬派なところがあったのが自分でもおかしい。
というようなこともあって、年齢的にはかなり無理をしたレベルの文学作品に触れていたのである。
同じ作品を今読めば、当時とは全く異なった感想を持つに違いない。
たぶん、当時よりは相当深い理解や解釈ができることだろう。
しかし、今さらあれらの極めて重たい文学作品を読み返すことはないだろうと思う。
解釈や理解はより進んでいても、体力的についていけない気がする。
そう考えると、うんと背伸びしていたと言っても、結局あの頃ああいった作品群を読んでいてよかったんじゃないか、とも思う。
今こうやって、長い文章なりが書けるのは、当時無理をしてでも膨大な文学作品に触れていたから、と言えなくもないのだ。
ああいった深淵なる文学の世界から入った私が、今こうやって書いているように、やがて哲学との比較を考えるようになったのも自然な流れなのかも知れない。
とはいえ、この課題に自ら何らかの結論を出すことはないだろう。
今さら、哲学というものを深く研究する気になどなれないからだ。
なんだか今回は、とりとめもない文章になってしまった。
普段、極めて軽薄に生きている私が、少しだけ真面目に考えてみたちょっと難しいテーマだったのである。
文学と哲学と類似点或いは相克、こんなテーマ、これからもときどきは考えてみるかな。
これは、昔、収集した文庫本。(いまだ、捨てられずにいます。)
もちろん、全部読みましたけど。
おしまい