書斎は生きている―「読書という山脈」をいかに制するか―Ⅰ
以前、幻冬舎の代表見城徹氏の書かれた「読書という荒野」という本を読んだことがある。
氏の読まれたこれまでの本や交流のあった作家、読書に対する姿勢のようなことを書かれた一冊だった。
今回のブログを、そのタイトルに倣って「読書という山脈」と銘打ってみた。
というのは私のデスク周りには、すでに読んだ本、まだ読んでいない本、途中まで読んだ本などが幾重にも山のようになって積まれているからである。
うっかりすると、雪崩のように崩れてきそうである。
私は、今住んでいるこの家を建てるとき、北側の一画に書斎を設けた。
「書斎」というのは、男にとってその良いイメージだけが先行して、当初の思い通りに使われることはなく、それはやがて無用の長物となるケースが多いらしい。
結果的に家財道具の倉庫か洗濯もの部屋みたいになりかねない、と雑誌などにはよく書かれていた。
それは知ってはいたけれど、私はあえて、書斎としては普通よりやや広めの6畳間くらいのスペースを確保したのである。
そして、窓とは反対側の一番広い壁一面に、床から天井まである本棚を作り付けた。
この本棚の収納力は相当なもので、かなりの分量の書籍を飲み込んでくれた。
にもかかわらず、時間が経つうちにそれでは足りなくなり、部屋の後方とデスクのすぐ横にも大工さんに頼んで、作り付けの本棚を追加したのである。
こうやって私は、完全に本に囲まれる環境を作り上げた。
しかし、さらに時を重ねるにしたがって、これだけのスペースでも足りなくなり、今こうやって机の周りは、積みあがった本だらけになってしまったのである。
というわけで、書斎は今のところ、ほぼ毎日活用し、無用の長物とはなっていない。
ある意味これは、私がかつて夢想していた本に囲まれて暮らすという理想の姿ではないのか。
「昔から憧れていたライフスタイルが実現したじゃないか!」
と、いえるかも知れないのだ。
さてしかし、ここで考えるのは「それでどうする?」ということでもある。
私は今71歳である。
残りの人生、そう長くもないかもなあ、と考えたとき、この膨大な書籍は残された人間にとって邪魔なものでしかないだろう、とも思う。
しかしまあ、私がこの世からいなくなったら、これらの本は好きにしてくれていい。
元気なうちはこいつらに囲まれて過ごさせてくれ、というやや投げやりというか我が儘な気持ちなのだ。
とまあ、ここまで長々と書いてきたが、これは実はこれから書きたいことの前段なのである。
前振りがすっかり長くなってしまった。
南側の壁一面本棚です。
つづく