苦い「暗黙知」として記憶されることも―「暗黙知」と「形式知」について考える―Ⅲ
ビジネス現場で「形式知」的なスキルや知識がますます効力を発揮するようになった結果、やや曖昧な「暗黙知」的なスキルは旗色が悪い。
仕事の進め方にも明らかな変化が起こっているのだ。
こういうビジネス界全体の状況を見て、私はそれでいいと思っている。
コンピュータ的世界への理解や操作の習熟といったことを前提に、昔より仕事が早く覚えられればそれに越したことはない。
というのは、そういったことのスキルアップを通じて、仕事がある程度できるようになったとしても、その先に「暗黙知」的な世界はやはりいくらでもあるからである。
「形式知」的な定型的処理や考え方ではどうしてもカバーできない「暗黙知」の世界はあるのだ。
ある、というより「必要だから存在する」と言った方が正しいかも知れない。
例えば、クレーム処理といった仕事には、ある程度マニュアルのようなものはあるにはある。
しかしながら、クレームをつけてくる相手の人格、性格といったものは千差万別である。
ときには、マニュアル的なものを超えて対処しなければならない場面も生じることがあるのだ。
私の職場でそういった事態に陥った場合、最終的には、やはり私の出番となる。
相手の要求が理不尽なもので、おまけに人格的にもハチャメチャだったりしたら、「形式知」も「暗黙知」もあったものではない。
しかし、どうあれ、とにかく私の判断でどうするか最終決着をつけなければならないことになる。
こういったケースでは、大抵の場合、全くもって胸くその悪い決着になることが多いのである。
しかしまあ、これはこれで組織のトップとして受け入れるしかない。
そしてそれは、私にとってのやや苦い「暗黙知」として記録され、記憶されるのだ。
もちろんこんなネガティブなケースばかりではない。
私のやや得意な分野、例えば文学や映画などの話題で、初めての仕事の相手とうまが合った場合、思いのほか話がスムーズに進むときもある。
こういう時の話の展開は予想不可能である。
これもまた、私の「暗黙知」として記録されるのである。
クレーム対応は難しい。
つづく