『知的空間』といえるのか?!?―眺書三昧・・本に囲まれて暮らしている―おまけ

「眺書三昧」追記

書斎で壁の三方を本に囲まれ、過ごす時間もそこそこ長いので、いかにも読書三昧の日々かといえば、実際に本を読んでいる時間はそんなになく、ボォーっとしたり、インターネットのどうでもいいような記事に目を奪われたり、ウトウトしたりしている時間の方がはるかに長いのであります。

ただ、ものを書くのはこの場所だけですので、書いている(実際は「打っている」わけですが)時間は、結構多いかも知れません。

 

その「書く」に際しては、それまで読み散らかした書籍の赤線を引っぱった個所を参考にしたりそこからの引用が頻繁になるために、再びその本を読み直す機会が多くなります。

そういう意味では、PCの周りは本だらけになり、まさに「眺書三昧」の日々となるわけです。

 

そのほかに、ちょっと思いついた着想などをメモした紙類やノートも何冊か加わり、広いデスクの上は実に雑然とした空間を形成するのであります。

「この混沌とした『知的空間』をこよなく愛しているのだな、俺は。」

と、ふと思うときがあります。

 

まあ、『知的空間』などというのは、私が勝手にそう呼んでいるわけで、本当にそれが『知的空間』なのか、或いは『知的時間』を過ごしているのかは極めて怪しいのかも知れません。

非知的時間の方が長くねえか?!?という声が聞こえてきそうですが・・・

 

ただ、こういう空間や時間が自分にとって必須のものであり、おそらくこれが自分の望んでいた人生の一つの形だろうな、と思います。

とはいえ、これは人生の「目的」ではなく、「何か」を手に入れるための日常ということになります。

 

その「何か」とは何か?ということになるわけですが、それがまだ判然としません。

最終的に何か「作品」のようなものを1本書き上げるのか、書きためたものを1冊の本に結実させるのか、そこはまだ明確ではないのです。

 

今のところ、この「知的に過ごしているように見える日常」を楽しむ、といったレベルかな、と思っているところであります。

これがフェイクで終わらないように、どこかで何かの結果を出したいな、と夢想しながら、今日も早起きして『知的空間』っぽいデスクに向かっているのでございます。

 

          デスク周りはゴチャゴチャとひどい有様です。

本当におしまい