率直な方が性に合っている―大人は見ているんだ、と思った日―Ⅲ(おしまい)
幼い頃、朝、近所の幼なじみの女の子と通っていた幼稚園に登園の際に、警報機が鳴りだしたにもかかわらず、急いで踏切を渡ってしまった私。
これがおそらく、生まれて初めて、世の中の公(おおやけ)のレベルへの規則違反という奴をしでかしたときではなかったか。
その後何食わぬ顔で登園したのだが、私を待っていたのは、園長先生の
「今朝、二人の生徒さんが、警報機が鳴っているのに踏切を渡ってしまいました。こんなことはしないように・・」
という注意をうながすスピーチだった。
このときは、直接、名指しで怒られることはなかったのである。
幼かったとはいえ、すぐに
『あ、自分たちのことを言っているんだ。』
と、理解できた。
今でもこうやって書けるということは、強く記憶に残るくらい、かなりドキドキしながらその話を聞いたのだろうと思う。
結局、園長先生からは「あんなことしちゃだめだよ。」という、個人への注意というのはなかった。
そうやって、一般論的な話し方をすることで、規則違反をした私たちに自覚を促したことになる。
私はこのことを思い出すときに、少し複雑な気持ちになる。
あのとき園長先生は、私やまゆみちゃんに直接注意せず、みんなに「こんな悪い子がいました。」という話し方で諭した。
もちろん、
『あ、いけないことしちゃったなあ・・・』
と思ったとはいえ、心の奥底で
『自分は監視されていたのか・・・』
という微かな気持ちがぬぐえない。
これは推測だが、状況からして、おそらく、踏切手前の駄菓子屋のおじさんかおばさんが通報したのだと思う。
とすれば、私的には
「駄菓子屋のおじさんから、あなたたちがやったことについて、園長先生のところに連絡があったよ。帰りにおじさんにもお礼を言っておきなさい。」
といった叱られ方の方がしっくりきたような気がする。
「今朝、踏切の音が鳴り始めたのに渡ってしまった人がいたそうです。」
という、ボカした言い方でなされたあの指摘は、なんだか私の中にモヤモヤとした気持ちの悪さを残してしまった。
まあ、「そういう注意のうながし方もあるのさ。」という意見もあるだろうから、こう思うのは、私の性格によるのかも知れない。
悪いことをしたのは自分なのだから、大いに反省しなければならなかったのだろうが、なんだか違うバイアスがかかって、しっくりとこなかった。
だから、こうやって書き始めたら、結構長くなってしまったのかも知れない、と思った。
おしまい